高橋誠一郎 公式ホームページ

『将軍』

司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

リンク→「主な研究」のページ構成

Akutagawa_ryunosuke

(芥川龍之介の肖像、Yokohama045、図版は「ウィキペディア」より)

はじめに

本稿では言論統制の強化が進み始めたころに書かれた芥川龍之介の『将軍』などに対する小林と司馬の考察を比較することで、イデオロギーから自由であった司馬遼太郎の歴史認識の広さと深さを明らかにできるだろう。

一、司馬遼太郎の『殉死』と芥川龍之介の『将軍』

『坂の上の雲』を書く一年前に乃木大将を主題とした『殉死』(文春文庫)を発表した司馬遼太郎は、この小説の冒頭近くで直接名前は出さないものの芥川龍之介の『将軍』に言及して、「筆者はいわゆる乃木ファンではない」が、自分には「大正期の文士がひどく毛嫌いしたような、あのような積極的な嫌悪もない」と断り、この作品を「小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめる」つもりで書くと続けていた。

それゆえ、この記述では芥川と自分の乃木観の違いが強調されていると考えた私は、旅順の激戦にも言及しつつ乃木大将を批判的に描いていた芥川龍之介の小説が気になりながらも、この短編と『殉死』とを具体的に比較することは行ってこなかった。

しかし、司馬遼太郎の『殉死』や『坂の上の雲』にも影響を及ぼしたと思われる夏目漱石の短編「趣味の遺伝」における旅順の戦いの描写や乃木将軍への言及に注目しながら、改めて芥川の『将軍』を読んだ際には先の言葉は司馬氏独特の韜晦的な表現であり、実際は芥川龍之介のこの小説の影響を強く受けているだろうと感じるようになった。

芥川龍之介の短編小説『将軍』は現在あまり読まれていないので、まずその内容を詳しく紹介し、その後で司馬の『殉死』との関係を考察することにしたい。

芥川龍之介の『将軍』は、司馬が「旅順総攻撃」の章でもふれていた「白襷(しろだすき)隊」について書いている第一章の「白襷隊」から始まり、「間諜」、「陣中の芝居」と続いて、乃木大将の殉死をめぐる父と息子との会話を描いた第四章「父と子と」から成立っている(引用は『芥川龍之介全集』岩波書店による)。

第一章の「白襷隊」は次のような文章で始まっている。「明治三十七年十一月二十六日の未明だった。第×師団第×聯隊(れんたい)の白襷隊(しろだすきたい)は、松樹山(しょうじゅさん)の補備砲台(ほびほうだい)を奪取するために、九十三高地(くじゅうさんこうち)の北麓(ほくろく)を出発した」。

その後で芥川龍之介はこう記している。少し長くなるが、司馬遼太郎の「軍神」観にも関わるので引用しておく。

「路(みち)は山陰(やまかげ)に沿うていたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行進だった。その草もない薄闇(うすやみ)の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷(しろだすき)ばかり仄(ほのめ)かせながら、静かに靴(くつ)を鳴らして行くのは、悲壮な光景に違いなかった。現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数(くちかず)の少い、沈んだ顔色(かおいろ)をしているのだった。が、兵は皆思いのほか、平生の元気を失わなかった。それは一つには日本魂(やまとだましい)の力、二つには酒の力だった。」(太字は引用者)

そして、「聯隊長はじめ何人かの将校」が「最後の敬礼を送っていた」のを見た田中一等卒が「どうだい? たいしたものじゃないか? 白襷隊になるのも名誉だな」と語るのを聞いて、「苦々しそうに、肩の上に銃をゆすり上げた」堀尾一等卒が、「何が名誉だ?」と聞き返し、「こちとらはみんな死にに行くのだぜ。してみればあれは××××××××××××××そうっていうのだ。こんな安上がりなことはなかろうじゃねえか?」と反論した。すると田中一等卒が、「それはいけない。そんなことを言っては×××すまない」と語ったと芥川は記している。

ここで注目したいのは、『澄江堂雑記』に「官憲」によって「何行も抹殺を施された」と芥川は記しているが、将校たちから「最後の敬礼」に送られて突撃をする兵士たちの苦悩が具体的に描き出されていたこの会話の部分も、検閲で伏せ字になっていることである。原稿が遺されていないために確定できないが、注の記述は最初の個所では「名誉の敬礼で生命を買い上げて殺(そう)」という文章が、次の個所では「陛下に」という文字が入っていただろうと想定している。

そして、第二章の「間諜」では、ロシア側のスパイを見つけた「将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝」き、「斬れ! 斬れ!」と命じた場面などが描かれている。「午前に招魂祭を行なったのち」に催された「余興の演芸会」での出来事が記されている第三章「陣中の芝居」では、将軍が「男女の相撲」や「濡れ場」のある余興の上演を二度にわたって直ちに取りやめさせるのを見た「口の悪いアメリカの武官」が隣にすわったフランスの武官に、「将軍Nも楽じゃない。軍司令官兼検閲官だから」と話しかける場面が描かれ、ピストル強盗を捉えつつも傷ついた巡査が亡くなるという芝居ではN将軍が、「偉い奴じゃ。それでこそ日本男児じゃ」と深い感激の声をあげたと記されている(下線引用者)。

最後の「父と子と」の章では、日露戦争当時は軍参謀の少佐だった中村少将とその息子との大正七年の夜の会話が淡々と描かれている。壁にあった「N閣下の額画」が別の絵に懸け換えられているのに気づいた少将から、肖像画が壁に掛かっているレンブラントについて尋ねられた息子は「ええ、偉い画かきです」と答え、さらに「まあN将軍などよりも、僕らに近い気もちのある人です」と続けている。

一方、彼が追悼会に出ていた友人が「やはり自殺している」ことを告げた青年は、自殺する前に「写真をとる余裕はなかったようです」と続けて暗にN将軍を批判したことを咎められると、「僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします」としながらも、「しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られることを、――」と続けようとした。

すると、「それは酷だ。閣下はそんな俗人じゃない、徹頭徹尾至誠の人だ」と父から憤然とさえぎられるが、息子は「至誠の人だったことも想像できます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりとのみこめないのです。僕等よりのちの人間には、なおさら通じるとは思われません。……」と語り、雨が降ってきたことに気づく場面で終わる。

大正一〇年に書かれたこの小説で芥川は青年に「ただその至誠が僕等には、どうもはっきりとのみこめないのです」と語らせていたが、この小説が発表された二年後には戦死者でなかったために靖国神社に入ることのできなかった乃木を祭る神社が創建され、「活躍した偉人を祭神とする神社の先例」となった(山室建徳『軍神――近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡』中公新書、二〇〇七年)。

さらに、昭和に入ると「偉大なる明治を思い返すべきという動き」が強まり、満州事変勃発の直後に廣瀬武夫を祀る神社創設の許可が内務省からおりて、日露戦争戦勝三〇周年にあたる昭和一〇年に廣瀬神社が鎮座した。芥川が自殺した翌年の昭和一五年には「本人の意志など問題ではなく」なり、東郷平八郎が神になることを「もってのほかでごわす」と拒否したにもかかわらず東郷神社が創建された。

一方、明治二〇年から一年間ドイツに留学していた乃木希典が帰国後に書いた意見具申書で、「我邦(わがくに)仏教の如キハ、目下殆(ほと)ンド何ノ用ヲ為ストコロナク」と書いている文章に注目した司馬は、『殉死』において乃木が「軍人の徳義の根元は天皇と軍人勅諭と武門武士の伝統的忠誠心にもとめるほかない」と報告していたばかりでなく、「日本は神国なるがゆえに尊し」という感動をもって書かれた山鹿素行の『中朝事実』を、師の玉木文之進から「聖典」のごとくに習っていた乃木希典が、ドイツ留学から戻った後でこれを読みなおすことで、「ついにはその教徒のごとくになった」と書いていたのである。

司馬と同じころに青春を過ごした哲学者の梅原猛は『殉死』や『坂の上の雲』において、「乃木希典は純真きわまりない人間」としてだけでなく、「戦争は大変下手で、無謀な突撃によっていたずらに多くの兵隊の血を流した将軍」として描かれていると指摘し、「乃木大将は東郷元帥とともに戦前の日本ではもっとも尊敬された軍神であった」ので、「戦前ならば、死刑にならないまでも、軍神を冒涜するものと作者は社会的に葬られたにちがいない」として、この作品を書いた司馬の勇気を高く評価している(「なぜ日本人は司馬文学を愛したか」『幕末~近代の歴史観』)。

芥川龍之介は治安維持法が強化されて特別高等警察が設置される前年の昭和二年に自殺したが、大正時代の青年たちを主人公とした『ひとびとの跫音』(中公文庫)で司馬は、大正十四年には治安維持法が公布されて国家そのものが「投網」や「かすみ網」のようになったと記し、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と続けている。

芥川が遺書ともいえる「或旧友へ送る手記」で、「みずから神にしない」と書き、自己の英雄化を拒否していることに注目するならば、「軍神を冒涜するもの」は「社会的に葬られた」時代に青春を過ごした司馬の芥川龍之介に対する思いはきわめて深く重かったと思える。

二、小林秀雄の『将軍』観と司馬遼太郎の「軍神」批判

一九四一年に書いた「歴史と文学」という題名の評論の第二章で、「先日、スタンレイ・ウォッシュバアンといふ人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かつた」とした小林秀雄は、「思い出話で纏(まと)まつた伝記ではないのですが、乃木将軍といふ人間の面目は躍如と描かれてゐるといふ風に僕は感じました」と書いていた(『小林秀雄全集』第七巻二一二頁)。

小林の読んだ本は、日露戦争の際にシカゴ・ニュースの記者として従軍したウォシュバンが書いた『NOGI』という原題の伝記で、『乃木大将と日本人』という邦題で、徳冨蘇峰による訳書推薦の序文とともに目黒真澄の訳で出版されていたものである(講談社学術文庫、一九八〇年)。

その直後に芥川の『将軍』に言及した小林は「これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かつた記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた。どうして、こんなものが出来上つて了つたのか、又どうして二十年前の自分には、かういふものが面白く思はれたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考へました」と続けている(下線引用者))。

そして、「『将軍』の作者が、この作を書いた気持ちは、まあ簡単でないと察せられますが、世人の考えてゐる英雄乃木といふものに対し、人間乃木を描いて抗議したいといふ気持ちは、明らかで、この考へは、作中、露骨に顔を出してゐる」とした小林は「敵の間諜を処刑する時の、乃木将軍のモノマニア染みた残忍な眼とか、陣中の余興芝居で、ピストル強盗の愚劇に感動して、涙を流す場面だとかを描いてゐる」が、「作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る」と解釈している(下線引用者)。

さらに、「最後に、これもポンチ絵染みた文学青年が登場していまして」と続けて、乃木将軍を批判した青年の言葉を紹介し、「作者にしてみれば、これはまあ辛辣な皮肉とでもいふ積りなのでありませう」と書いた小林は、ウォッシュバンの書いた伝記が「芥川龍之介の作品とまるで違つているのは、乃木将軍といふ異常な精神力を持つた人間が演じねばならなかつた異常な悲劇といふものを洞察し、この洞察の上にたつて凡ての事柄を見てゐるといふ点です。この事を忘れて、乃木将軍の人間性などといふものを弄くり廻してはゐないのであります」と賛美していた。

ここで小林は、「学生時代に読んで、大変面白かつた」記憶がある『将軍』を、ついでに読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた」と書いていたが、その理由は現在の読者には明らかだろう。つまり、学生時代には自分にも戦場で戦うことになる可能性があったので、芥川が青年に語らせた言葉は小林にとっても切実なものだった。しかし、この評論を書いた翌年には大東亜文学者会議評議員に選出され、青年たちを戦場へと送り出す役割をいっそう強く担うことになる小林にはすでにそのような危険性は無くなっていたのである。

司馬遼太郎の歴史観との関連で興味深いのは、小林が「疑惑 Ⅱ」というエッセーで、日中戦争の時に二五歳で戦死し、「軍神」とされた戦車隊の下士官・陸軍中尉西住小次郎を扱った「菊池寛氏の『西住戦車長伝』を僕は近頃愛読してゐる。純粋な真実ないゝ作品である」と書いていることである(『小林秀雄全集』第七巻、六八頁)。そして、「友人に聞いても誰も読んでゐる人がない。恐らくインテリゲンチャの大部分のものは、あれを読んではゐないであらう。当然な事なのだ」と書いた小林は、「インテリゲンチャには西住戦車長の思想の古さが堪へられないのである。思想の古さに堪へられないとは、何といふ弱い精神だろう」と続けて、日本の近代的な知識人を批判していた。

さらに、「今日わが国を見舞っている危機の為に、実際に国民の為に戦っている人々の思想は、西住戦車長の抱いてゐる様な単純率直な、インテリゲンチャがその古さに堪へぬ様な、一と口に言へば大和魂といふ、インテリゲンチャがその曖昧さに堪へぬ様な思想にほかならないのではないか」と記して、夏目漱石が『吾輩は猫である』でスローガンとして使われていることへの危機感を表明していた「大和魂」にも言及した小林は、「伝統は生きてゐる。そして戦車といふ最新の科学の粋を集めた武器に乗つてゐる」と続けていたのである(太字は引用者)。

一方、『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年に軍神・西住戦車長」というエッセーを書いた司馬遼太郎は、そこで「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった。最初はだれの知恵から出たものかはわからないが、もっとも安あがりの軍需資源といっていい」と厳しく批判していた(『歴史と小説』、集英社文庫)。

そして、「日露戦争では、海軍は旅順閉塞隊の広瀬武夫中佐、陸軍では遼陽で戦死した橘周太中佐が軍神」になっていたことを紹介した司馬は、菊池寛の『西住戦車長伝』から「剛胆不撓(ごうたんふとう)、常に陣頭に立ちつつ奮戦又奮戦真に鬼神を泣かしむる行動を敢行して、よく難局を打開し」という記述を引用して、「事実、そのとおりであろう。西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいない」と記している。(なお、司馬はここで菊池寛の伝記を『昭和の軍神・西住戦車長伝』と、「昭和の軍神」を付け加えて誤記しているが、それは軍神に対する司馬の強い関心をも示しているだろう)。

ただ、その後で司馬は比較文学者の島田謹二が描いた『ロシヤにおける広瀬武夫』(弘文堂刊)に描かれている「この個性的な明治の軍人がすぐれた文化人の一面をもっていたことを知ったが、昭和の軍神はそうではなかった。学校と父親からつくった鋳型から一歩もはみ出ていなかった」と続けているのである。

すなわち司馬によれば、西住戦車長が「軍神」になりえたのは彼が戦車に乗っていたからであり、「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があった」のであり、当時の日本陸軍は「世界第二流の軍隊だった」が、「国家が国民をいつわって世界一と信じこませていたのである」(太字は引用者)。

西住戦車長が戦死した翌年にノモンハン事件が起きると、その「いつわり」のつけはすぐに払わねばならなくなった。冷静な事実の記述でありながら、内に激しい怒りがこもっている司馬の文章を少し長くなるが引用しておきたい。

「ソ連のBT戦車というのもたいした戦車ではなかったが、ただ八九式の日本戦車よりも装甲が厚く、砲身が長かった。戦車戦は精神力はなんの役にも立たない。戦車同士の戦闘は、装甲の厚さと砲の大きさで勝負のつくものだ。ノモンハンでの日本戦車の射撃はじつに正確だったそうだが、(中略)タマは敵戦車にあたってはコロコロところがった。ところがBT戦車を操縦するモンゴル人の大砲は、命中するごとにブリキのような八九式戦車を串刺しにして、ほとんど全滅させた。」

つまり、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で日露戦争の際に、乃木大将の指揮した軍隊が崩壊したことなどが隠蔽されたことを指摘していたが、そのような軍事上の事実の「隠蔽」はノモンハン事件での大敗北の際にも行われて、国民には知らされていなかったのである。

この意味で重要と思われるのは、『昭和という国家』の「誰が魔法をかけたのか」と題された第一章で、「ノモンハンには実際には行ったことはありません。その後に入った戦車連隊が、ノモンハン事件に参加していました」と語り、「いったい、こういうばかなことをやる国は何なのだろうということが、日本とは何か、ということの最初の疑問となりました」とし、「私は長年、この魔法の森の謎を解く鍵をつくりたいと考えてきました」と続けた司馬が、「参謀本部という異様なもの」について言及して、「そういう仕組みがいつでき始めたかというと、大正時代ぐらいから始まっています。もうちょっとさかのぼれば、日露戦争のときが始まりでした」と書いていることである。

このように見てくるとき、『坂の上の雲』を書いたときの司馬の関心が、「軍神」を作り出して、本来ならばその生命を守るべき「国民」を戦争に駆り立てた「参謀本部」というシステムにあったことは確実だといえるだろう。

事実、「ノモンハンで生きのこった日本軍の戦車小隊長、中隊長の数人が、発狂して廃人になったというはなしを、私は戦車学校のときにきいて戦慄したことがある。命中しても貫徹しないような兵器をもたされて戦場に出されれば、マジメな将校であればあるほど発狂するのが当然であろう」とも記していた司馬は、「昭和に入って、軍部はシナ事変をおこし、さらにそれを拡大しようとしたために、国民の陣頭にかざす軍神が必要になった」と説明し、「つづいて大東亜戦争の象徴的戦士として真珠湾攻撃のいわゆる『九軍神』がえらばれ」たが、「日本の軍部がほろびるとともに、その神の座もほろんだ」と結んでいたのである(『歴史と小説』)

それゆえ司馬は、『坂の上の雲』を書き終わった年に発表した「戦車・この憂鬱な乗り物」と題した一九七二年のエッセーでは、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判している(太字は引用者)。このとき司馬の批判が「大和魂」を強調しつつ、「伝統は生きてゐる。そして戦車といふ最新の科学の粋を集めた武器に乗つてゐる」と書いて、国民の戦意を煽っていた小林秀雄の歴史認識にも向けられていた可能性は高かったと思える。

(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉『全作家』第90号、2013年より、芥川龍之介観の考察を独立させ、それに伴って改題した。2月6日、青い字の箇所とリンク先を追加)

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→小林秀雄と「一億玉砕」の思想

リンク→« 隠された「一億玉砕」の思想――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(4)

司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→「主な研究」のページ構成

はじめに

私がドストエフスキーの作品と出合ったのは、ベトナム戦争が行われていた高校生のころで、原子爆弾が発明され投下されるなど、兵器の近代化によって五千万人もの戦死者を出した第二次世界大戦の後も戦争が続けられることに憤慨して、私は宗教書や哲学書、さらに文学書を学校の授業もおろそかにして読みふけって価値観を模索していた。

それゆえ、長編小説『罪と罰』や『白痴』を読んだ際には、社会状況をきちんと分析しながら、自己と他者の関係を深く考察することで個人や国家における「復讐の問題」を極限まで掘り下げているこれらの作品は、「殺すこと」が正当化されている状況を根本的に変える力になると思えたのである。そして、そのような思いから戦後も高く評価されていた小林秀雄のドストエフスキー論も一時期、熱心に読んだ。

1,情念の重視と神話としての歴史――小林秀雄の歴史認識と司馬遼太郎

しかし、私がロシア文学ではなく文明学を研究対象とした理由の一端は、一九三五年から一九三七年にかけて雑誌『文學界』に連載されていた小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』の冒頭におかれていた「歴史について」と題された「序」にあった。

この「序」で、「歴史は神話である。史料の物質性によつて多かれ少かれ限定を受けざるを得ない神話だ」と規定した小林は、「既に土に化した人々を蘇生させたいといふ僕等の希ひと、彼等が自然の裡に遺した足跡との間に微妙な均合が出来上る」とし、「歴史とは何か、といふ簡単な質問に対して、人々があれほど様々な史観で武装せざるを得ない所以である」とし、「一見何も彼も明瞭なこの世界は、実は客観的といふ言葉の軽信或は過信の上に築かれてゐるに過ぎない」と記していた((下線引用者、『小林秀雄全集』第五巻、新潮社、一九六七年、一四~一六頁。引用に際しては、旧漢字は新漢字に改めた。)。

この『ドストエフスキイの生活』が発表されていた一九三六年に日本はロンドン軍縮会議からの脱退を宣告し、一九三七年からは太平洋戦争に直結することになる日中戦争が始まっていたが、「僕は本質的に現在である僕等の諸能力を用ひて、二度と返らぬ過去を、現在のうちに呼び覚ます」と記した小林は、「僕は一定の方法に従つて歴史を書かうとは思はぬ」と宣言し、「立還るところは、やはり、さゝやかな遺品と深い悲しみとさへあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない」と情緒的な言葉で自分の「方法」の特徴を示し、「要するに僕は邪念といふものを警戒すれば足りるのだ」という言葉で「序」を結んでいた。

こうして、この「序」で「自然」や「歴史」の問題に言及しながら、自分の方法の特徴を端的に記した小林は、「自分の情念」を大事にしながら、自分の選んだ作品の主人公や主要な登場人物について考察している。しかし、青年に達した「死児」はすでに自分独自の交友関係を有しているのであり、いかに子供を深く愛していても「母親」の「情念」だけでは、「死児」の全体像を描き出すのは難しいと思われる。

実際、日本では恋愛小説として理解されている長編小説『白痴』では、貧富の格差や貴族たちのモラルの腐敗の問題が、きわめて鮮明に描き出されているが、小林秀雄の『白痴』論ではこれらの問題にはほとんど言及されていない。

最初はこのことを不思議に感じたが、「四民平等」を謳った明治維新後に導入された「華族制度」は、帝政ロシアの貴族制度とも似ていたので、『白痴』に描かれているこれらの問題に言及することは、日本の華族制度の批判とみなされる危険性があったのである。しかも問題は、戦後になって厳しい検閲制度が廃止された後でも小林が自分の『白痴』観を変えなかったことである。

それゆえ、そのような小林秀雄の歴史認識に疑問を感じていた私は、帝政ロシアの問題をきちんと分析していない小林秀雄のドストエフスキー論が戦後も高く評価されていることに深い危機感を抱いた。なぜならば、クリミア戦争の敗北後に帝政ロシアでは、農奴制の廃止や言論の自由などの「大改革」が行われたが、しかし自分たちの利権が失われることを嫌った貴族たちによって改革は骨抜きにされて再び厳しい言論統制がおこなわれるようになり、露土戦争での勝利や日露戦争での敗戦を経て革命にいたっていたからである。

一方、司馬遼太郎は『昭和という国家』(NHK出版、一九九八年)の「買い続けた西欧近代」と題された第九章で、真珠湾攻撃の後に行われた「近代の超克」という座談会に「当時の知識人の代表者」だった小林秀雄も参加していたことを紹介し、「小林秀雄さんを尊敬しております」と断りつつも、このときの座談会については「太平洋戦争の開幕のときの不意打ちの成功によっても、日本のインテリは溜飲を下げた」ときわめて厳しい批判を投げかけていた。

このことに注目しながら、戦争中に書かれた小林の「歴史と文学」や「疑惑 Ⅱ」というエッセーを読むと、芥川龍之介の『将軍』観や菊池寛の『西住戦車長伝』観が、司馬遼太郎の見方とは正反対であることに気づく。(リンク→)最後に戦時中に書かれた「歴史と文学」における小林の歴史認識と司馬遼太郎との違いを確認することで、これまで矮小化されてきた司馬遼太郎の「文明史家」としての大きさを明らかにしたい。

2、小林秀雄の「隠された意匠」と「イデオロギーフリー」としての司馬遼太郎

「歴史と文学」の第一章で小林秀雄は、「歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にする」が、「歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる。歴史を貫く筋金は、僕等の愛情の念といふものであって、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます」と記していた。

そして、「大正以来の日本の文学は、十九世紀後半のヨオロッパ文学の強い影響」下にあることを指摘し、「作家たちによる、人間性といふものの無責任な乱用」や、唯物史観の影響下にある文学を批判した小林秀雄は、『大日本史』の列伝では「様々な人々の群れが、こんなに生き生きと跳り出す」ことを指摘して、作家たちが「腕に縒りをかけて、心理描写とか性格描写とかをやつてゐる」、「現代の小説」のつまらなさを糾弾していた(二一七頁)。

さらにこの文章の末尾で「僕は、日本人の書いた歴史のうちで、『神皇正統記』が一番立派な歴史だと考えてゐます」とも記した小林は、この書を小田城などの陣中で書いた北畠親房が「心性明らかなれば、慈悲決断は其中に有り」と記していることに注意を促して、物事を判断する「悟性」よりも「心性を磨くこと」の大切さを強調し、「この親房の信じた根本の史観は、今もなほ動かぬ、動いてはならぬ」と主張していた。

一方、『竜馬がゆく』(文春文庫)には「歴史こそ教養の基礎だ」とする武市半平太が、宋の学者司馬光が編んだ「古代帝国の周の威烈王からかぞえて千三百年間の中国史」を描いた「編年体」の『資治通鑑(しじつがん)』を自分が教えると誘うが、坂本竜馬はこの提案を断って漢文で書かれたこの難解な歴史書を我流で読んで、書かれている事実を理解するという場面が面白おかしく描かれていた(第二巻・「風雲前夜」)。

このエピソードは一見、竜馬の直感力の鋭さを物語っているだけのようにも見えるが、「イデオロギーフリー」としての司馬の歴史観を考えるうえではきわめて重要だろう。なぜならば、『竜馬がゆく』において幕末の「神国思想は、明治になってからもなお脈々と生きつづけて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし、国定国史教科書の史観」となったと記した司馬は、さらに「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判しているからである(第三巻・「勝海舟」)。

実は、作家の海音寺潮五郎が司馬との対談『日本の歴史を点検する』(講談社文庫)で語っているように、古代の中国の歴史観では自国を世界の中心と見なす「中華思想」が強く、ことに漢民族が滅亡するかもしれないという危機の時代に編まれた『資治通鑑』には、「尊王攘夷」や「大義名分」などの考え方が強く打ち出されていた。そして司馬は、南北朝の時代に『神皇正統記』を著した北畠親房を「中国の宋学的な皇帝観の日本的翻訳者」と位置づけているが、危機的な時代に著された『神皇正統記』にはそのような「尊王攘夷」史観が強く、徳川光圀が編纂した『大日本史』もそのような見方を強く受け継いでいたのである。

しかも、「歴史と文学」の第一章で、「歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にする」が、「歴史は決して二度と繰返しはしない」と記していた小林秀雄は、敗戦後の一九四六年に行われた座談会で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言を問い質されると、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた。

この発言について司馬は何も言及していない。しかし、満州の戦車隊で「五族協和・王道楽土」などのイデオロギーというレンズの入った「窓」を通してみることの問題点を痛感した司馬は、もし戦場から生きて帰れたら「国家神話をとりのけた露わな実体として見たい」と思うようになり、この「露わな実体」に迫るために「自分への規律として、イデオロギーという遮光レンズを通して物を見ない」という姿勢を課していた(「訴える相手がないまま」『十六の話』)。

そして、ノモンハン事件の研究者クックから戦前の日本では、国家があれほどの無茶をやっているのに、国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったではありませんかと問われた司馬は、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。そのことを、ほとんどの人が感じ始めている。『ノモンハン』が続いているのでしょうな」と答えていたのである。(「ノモンハンの尻尾」『東と西』朝日文庫)。

司馬遼太郎は「唯物史観」の批判者という側面のみが強調されることが多いが、「大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」、「尊王攘夷史観」の徹底した批判者でもあったのである。

青年のころに「神州無敵」といったスローガンに励まされて学徒出陣したことで、「イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに、『絶対のうそ』」があります」と書いている(「ブロードウェイの行進」『「明治」という国家』NHK出版)。国家が強要する「”正義の体系”(イデオロギー)」によってではなく、世界史をも視野に入れつつ自分が集めた資料や隣国の歴史などとの比較によって日本史を再構築しようとした司馬遼太郎の試みは壮大だったということができるだろう。

さらに、「二十一世紀に生きる君たちへ」という自分の文明観を分かりやすく子供たちに語りかけた文章で、「私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考え」の必要性を訴えた司馬は、「今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きている」ことを強調し、「自国」だけでなく「他国」の文化や歴史をも理解することの重要性を明確に示していた(『十六の話』)。

分かりやすい文章で書かれた司馬遼太郎の長編小説では、描かれている個々の人物も屹立した樹木のように見事なので、一部分だけが引用されると誤解されることが多いが、その全体像は鬱蒼たる森のように奥深く、彼の文明観は厳しい形で幕が開いた二十一世紀のあり方を考える上でもきわめて重要だと思える。

(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉『全作家』第90号、2013年より、歴史認識の問題を独立させ、それに伴って改題した)。

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって