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「大地主義」

『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

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『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

はじめに

昨年の3月に「日本トルストイ協会」で行われた講演で籾内裕子氏は、内田魯庵訳の『復活』への二葉亭四迷の関わりを詳しく考察し、12月にはトルストイの劇《復活》を上演した島村抱月主宰の劇団・藝術座百年を記念したイベントも開かれました。

さらに、夏には故藤沼貴氏による長編小説『復活』の新しい訳が岩波文庫から出版され、「解説」には『罪と罰』の結末との類似性の指摘がされていました。その記述からは、改めてドストエフスキーとトルストイのテーマと問題意識の深い繋がりや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とした文芸評論家の小林秀雄の『罪と罰』解釈の問題点が感じられました*1。

本稿では『復活』とその訳に注目することで、対立して論じられることの多いドストエフスキーとトルストイの作品の内的な深い関係をエッセー風に考察したいと思います(図版はいずれも「岩波文庫」より)。

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一、雑誌『時代』とトルストイ

農奴制の廃止や言論の自由などを求めたために1848年のペトラシェフスキー事件で逮捕され、死刑の宣告を受けた後に減刑されてシベリアに流刑されたドストエフスキーは、流刑中の1852年に『同時代人』に掲載された『幼年時代』に記されている「Л.Н.とはだれのことか」と兄ミハイルへの手紙で尋ねていました*2。

農奴解放だけでなく法律や教育制度の改革も行われた「大改革」の時期に首都に帰還したドストエフスキーは、兄とともに総合雑誌『時代』を創刊し、多くが文盲の状態に取り残されている民衆に対する教育の普及の重要性を強調し、そこで1862年2月に創刊された月刊教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』の紹介を行ったばかりでなく、『死の家の記録』では厳しい検閲の下にもかかわらず、監獄の状況を鋭く描き出しました*3。

それゆえ、トルストイはこの長編小説について「我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」と書いているのです*4。

一方、ドストエフスキーが唱えた「大地主義」について、「その教義は、要するに西欧派とスラヴ派との折衷主義であつて、…中略…穏健だが何等独創的なものもない思想であり、確固たる理論も持たぬ哲学であつた」とした文芸評論家の小林秀雄は、『死の家の記録』についても「厭人と孤独と狂気とが書かせた」ゴリャンチコフの「手記だつた事を思ひ出す必要がある」と書いています*5。

しかし、この作品が一時、「検閲官」の差し止めで中止されるなど厳しい検閲下で書かれていたことを忘れてはならないでしょう。興味深いのは、雑誌『時代』の創刊号から7ヵ月にわたって連載された長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でドストエフスキーが登場人物にトルストイの作品にも言及させていることです。

「大改革」の時代のロシアが抱えていた問題を浮き彫りにしているこの作品のことはあまり知られていないので、まずその粗筋を紹介しその後で『罪と罰』との関連にふれることにします。

この長編小説は、主人公のイワンがみすぼらしい老人と犬の死に立ち会うというシーンから始まり、その後で少女ネリーをめぐる出来事とイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる筋が並行的に描かれていきます。

物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ワルコフスキー公爵の犯罪的な詐欺によるものであることがはっきりしてくるのです。すなわち、物語の冒頭で亡くなるネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったのですが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていました。

一方、150人の農奴を持つ地主で、主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も900人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきたことに起因しています。しばしばイフメーネフ家を訪れて懇意になったワルコフスキー公爵は、自分の領地の管理を依頼し、5年後にはその経営手腕に満足したとして新たな領地の購入とその村の管理をも任せたのです。

ここで注目したいのは、ワルコフスキーがイワンに「私はかつて形而上学を学びましたし、博愛主義者になったこともあるし、ほとんどあなたと同じ思想を抱いていたこともある」と語っていることです。父親からあまり関心を払われずに親戚の伯爵の家に預けられていた息子のアリョーシャは、トルストイの『幼年時代』と『少年時代』を熱中して読んだとイワンに伝えていますが、この時彼は父親のうちに、自分の領地ヤースナヤ・ポリャーナに学校や病院を建設して農民の養育に励んだトルストイのような面影を見ていたように思えます。人の良いイフメーネフ老人がワルコフスキー公爵を信じて彼の領地の管理や新たな領地の購入を手伝ったのは、改革者のような彼の姿勢に幻惑されたためだったといえるでしょう*6。

しかし、領地を購入した後でワルコフスキー公爵は、領地の購入代金をごまかされたという訴訟を起こし、隣村の地主たちを抱き込んでさまざまな噂を流し、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだために、裁判に敗れて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのです。

この小説が連載された雑誌『時代』(1861年1月号~1863年4月号)が検閲で発行禁止となった後、ドストエフスキーは新たに創刊した雑誌『世紀』に『地下室の手記』などを発表してなんとか存続させようとしましたが、この雑誌も1865年には廃刊になりました。その翌年に発表されたのが、「強者のみに有利なる法律」に激しい怒りを覚え、「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定して殺した元法学部の学生・ラスコーリニコフの苦悩と行動を詳しく描いた長編小説『罪と罰』でした。

二、内田魯庵訳の『復活』と新聞『小日本』

日本では内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て1892年に『罪と罰』の第一部を、翌年には第二部を英語から訳していましたが、充分な購買者数を得ることができなかったために『罪と罰』の後半部分は出版されませんでした。それにも関わらず、評論「『罪と罰』の殺人罪」できわめて深い解釈を記したのが北村透谷だったのです*7。

『罪と罰』を訳していた内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に連載されたのは、日露戦争終結前の1905年4月5日から12月22日にかけてでした*8。魯庵はこの訳を掲載する前日に「トルストイの『復活』を訳するに就き」との文章を載せて、そこでこの長編小説の意義を次のように記していました。

「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

私が強い関心を抱いたのは、どのような経緯で魯庵訳の『復活』が『日本』に掲載されたのかということでした。そのことに関連してまず注目したいのは、正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』に掲載された文芸評論家・北村透谷の自殺についての次のような記事が子規によって書かれていた可能性が高いことです*9。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

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(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻・別巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

この記事が掲載された新聞『小日本』は明治八年に発布された「讒謗律」や「新聞紙条例」によってたびたび発行停止処分を受けていた新聞『日本』を補う形で創刊されたのですが、俳句や和歌のコーナーを設けて投稿を広く呼びかけた子規は、その創刊号からは自分の小説「月の都」を卯之花舎(うのはなや)の署名で掲載していました。

若い仏師の悲恋を描いた幸田露伴の『風流仏』に強い感銘を受けた子規が、1891年の冬期休暇中に一気に書き上げたこの小説の原稿は「露伴氏の一閲を乞うた」ものの批評が芳しくなかったために、社主の羯南翁から自恃(じじ)居士(高橋建三氏)の手に渡り、二葉亭四迷のところまで行っていたのです*10。

それゆえ、夏目漱石が英国から親友の正岡子規に書いた手紙でトルストイの破門についてのイギリスの新聞の記事を紹介していたのは一方的な紹介ではなく、子規の関心に応えていたという可能性さえあると思われます。

さらに、『罪と罰』を高く評価した北村透谷は、トルストイの長編小説『戦争と平和』や『イワンの馬鹿』を英訳で読み、徳冨蘆花よりも早くにトルストイの戦争観にも言及して、両者をともに高く評価していました*11。二葉亭四迷の勧めで1908年に連載した長編小説『春』で島崎藤村が、『文学界』の同人であった北村透谷との友情やその死について描いていたことはよく知られていますが、短い記事とはいえ子規はすでに北村透谷の意義を高く評価する記事を書いていたのです。

子規が書いた短い記事を視野にいれると二葉亭四迷だけでなく、夏目漱石も深い印象を受けただろうと推測され、内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に掲載されるようになった遠因は正岡子規にあったと言ってもよいのではないかと思えます。

さらに正岡子規や北村透谷との関連で注目したいのは、1910年に修善寺で大病を患った夏目漱石が、「思い出す事など」で「無意識裡に経過した大吐血の間の死の数瞬間」とドストエフスキーの「癲癇時の体験」との比較をしつつ、ペトラシェフスキー事件で捉えられ、刑場に連れ出された「寒い空と、新しい刑壇と刑壇の上にたつ彼の姿と、襯衣一枚で顫えてゐる彼の姿を根氣よく描き去り描き來って已まなかった」と記していたことです。

比較文学の清水孝純氏はこの時漱石が「時代を震撼させた」日本の大逆事件を「思い浮かべていたことは想像に難くない」と記しています*12。この指摘は重要でしょう。ペトラシェフスキー事件の翌年にオーストリア帝国の要請によってハンガリー出兵に踏み切っていたロシア帝国はその数年後にクリミア戦争へと突入していました。大逆事件で幸徳秋水などを逮捕した年に「日韓併合」を行った日本も、その後大陸への進出を強めることになったのです。

三、トルストイの『罪と罰』観と『復活』

トルストイの『罪と罰』観を考える上で重要なのは、日露戦争後にヤースナヤ・ポリャーナを訪れた德富蘆花からロシアの作家のうち誰を評価するかと尋ねられた際に、「ドストエフスキー」であると答え、さらに蘆花が『罪と罰』についての評価を問うと「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」と続けていたことです*13。

そのような高い評価に注目するならば、トルストイは「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定してその殺害を正当化した主人公ラスコーリニコフの悲劇と苦悩を描き出すとともに、ソーニャとの関わりに読者の注意を促しながら、シベリアの流刑地で森や泉の尊さを知る民衆との違いを認識させていたエピローグの意義を深く理解していたと思えます。

たしかに、ドストエフスキーは『罪と罰』の本編では、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい?」と妹に問わせ、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁もさせていました*14。

しかし、ドストエフスキーはラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させていた後で、「罪の意識」に目覚めた主人公が徐々に変わっていく「新しい物語」を次のように示唆していたのです。

「ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。」

自分の理論が核兵器の発明にも利用されてしまったことを知ってから、核兵器廃絶と戦争廃止のための努力を続けた物理学者のアインシュタインは、ドストエフスキーについて「彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と述べていました*15。兵器の改良により大量殺人が可能になった現代では、新たな戦争が「人類滅亡」につながる可能性が実際に出てきていたのであり、ドストエフスキーやトルストイはその危険性をいち早く洞察していたといえるでしょう。

一方、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、ラスコーリニコフには「罪の意識」はなかったと断言し、エピローグも「半分は読者の為に書かれた」と記していました。そして、戦後に書いた『罪と罰』論でもエピローグの結末に記された「新しい物語」に言及した小林は、ドストエフスキーが『白痴』で「この『新しい物語』を書かうと考へた事は確かである」としながらも、主人公が「次第に更生し、遂に新しい現実を知ることは可能であるか」と読者に問い、不可能であると断言していたのです*16。

このような解釈と正反対の解釈を示したのがトルストイ研究者の藤沼貴氏でした。『罪と罰』の粗筋を「誤った『超人』思想に駆られて殺人を犯し、シベリアに流刑されたラスコーリニコフは、彼と共に流刑地まで来たかつての娼婦ソーニャの純粋な愛によってよみがえり、自分の罪を認めて復活する」と簡明に記した藤沼氏は、『復活』の結末の次のような文章が『罪と罰』の結末に酷似していることを指摘していました*17。

「この夜から、ネフリュードフにとってまったく新しい生活が始まった、それは彼が新しい生活条件に入ったからというよりむしろ、このとき以来彼の身に生じたすべてのことが、彼にとって以前とまったく別の意味を得ることになったからだった。ネフリュードフの人生のこの新しい時期がどのようなかたちで終わるか、それは未来が示してくれる」。

四、『復活』のネフリュードフと『白痴』のムィシキン

トルストイの劇《復活》で松井須磨子が「カチューシャの唄」を歌ってから百年に当たることを記念して行われたイベントでは、トルストイの原作とそれを劇化したアンリ・バタイユの脚本やその英訳をしたビアボム・トゥリーの脚本をもとにした島村抱月の劇との違いも論じられました*18。

私にとってことに興味深かったのは、名門貴族のネフリュードフが奔走したかいがあり、皇帝からの特赦状が届いてカチューシャ(マスロワ)は自由になるが、彼女は政治犯のシモンソンとともにシベリアへいくことを選ぶことです。

この後で、トルストイは「奇妙な斜めを向いた目とあわれを誘うような微笑の中に」、ネフリュードフが彼女は自分を愛していたが、彼女は娼婦だった「自分を彼に結びつければ、彼の一生をだいなしにすると考え、シモンソンといっしょに姿を消して、ネフリュードフを自由にしようとしていたのだ」と読み取ったと記しています*19。

トルストイの『復活』が誘惑した後で捨てた小間使いのカチューシャと裁判所で再会したことで「良心の呵責」に苦しむようになった貴族のネフリュードフの物語であることに注意を払うならば、その描写は、子供の時の火事が原因で孤児となり貴族のトーツキーによって養われていたが、美しい乙女になると犯されて妾にさせられていたナスターシヤが、ムィシキンからのプロポーズに歓喜しながらも、子供のように純粋な彼の一生をだいなしにすると考えて、ロゴージンとともに去っていたことを思い起こさせます。

『罪と罰』の結末に記された「ひとりの人間が徐々に更生していく物語」という記述に注目しながら、『復活』と『白痴』の第一部を比較するとき、主人公と虐げられた女性との関係の描かれ方の類似性に驚かされます。

トルストイは長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と高く評価していました*20。

長編小説『罪と罰』や『白痴』における「良心」という単語の用法に注目しながら読むとき、しばしば否定的に論じられるムィシキンの行動は、名門貴族の末裔であったという「贖罪的な意識」から自分の非力さを知りつつも「殺すなかれ」という理念を広めようとしていたと解釈できるのではないでしょうか*21。

おわりに

ドストエフスキーとトルストイはしばしば対立的な作家として対置されてきましたが、ドストエフスキーはトルストイの農民に対する教育活動を高く評価していましたし、トルストイもまた「大地主義」の理念に深い関心を寄せていたのです。

長編小説『復活』と『罪と罰』の結末に記された「新しい物語」の記述の類似性を指摘した藤沼氏の言葉に注目しながら、『罪と罰』から『白痴』への流れを分析するとき、両者の相互関係を深く理解することが、二人の大作家の作品を正しく理解する上でも必要不可欠であることを物語っているでしょう。

 

《注》

*1  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、45頁。

*2  川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』NHK出版、2013年。

*3  ドストエフスキー、望月哲男訳『死の家の記録』光文社、2013年参照。

*4  グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年、483頁。

*5  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第5巻、新潮社、66頁。

*6  高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第2章〈「大改革の時代」と「大地主義」〉参照。

*7  北村透谷「『罪と罰』の殺人罪」『北村透谷選集』岩波文庫、1970年参照。

*8  籾内裕子「内田魯庵と二葉亭四迷――『復活』初訳をめぐって」『緑の杖』(日本トルストイ協会報)第12号、2015年、2~13頁。

*9  『「小日本」と正岡子規』大空社、1994年、34頁。

*10柴田宵曲『評伝正岡子規』岩波文庫、2002年。

*11北村透谷、前掲書、1970年。

*12 清水孝純「日本におけるドストエフスキー ――大正初期に見る紹介・批評の状況」、『ロシア・西欧・日本』朝日出版社、昭和51年、452~454頁。

なお蘆花のトルストイ観については、阿部軍治『徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』(改訂増補版)彩流社、2008年参照。

*13 徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』第42巻、筑摩書房、昭和41年、183~186頁。

*14 ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』岩波文庫より引用。

*15 クズネツォフ、小箕俊介訳『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社、1985年、9頁。

*16 小林秀雄、前掲書、『小林秀雄全集』第6巻、291頁。小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年参照。

*17 藤沼貴「トルストイ最後の長編小説『復活』」、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、2014年。初出は『トルストイ』第三文明社、2009年、504頁。

*18 昨年12月7日のパネルデスカッション「カチューシャの唄大流行と大衆の時代」、および、木村敦夫「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」、東京藝術大学音楽学部紀要、第39集、平成26年、39~58頁参照。

*19 トルストイ、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、440頁。

*20 トルストイ、訳は『白痴』新潮文庫下巻、「あとがき」の木村浩訳より引用。

*21 髙橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年参照。

(『緑の杖』〈日本トルストイ協会報〉第12号、2015年)

 

あとがきに代えて──小林秀雄と私

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あとがきに代えて──小林秀雄と私

 

 「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論は、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけになった。原作の文章を引用することにより作品のテーマに迫るという小林秀雄の評論からは私の文学研究の方法も大きな影響を受けていると思える。

 『カラマーゾフの兄弟』には続編はありえないことを明らかにしていただけでなく、「原子力エネルギー」の危険性も「道義心」という視点から批判していた小林の意義はきわめて大きい。

 しかし「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と書いた小林秀雄が、「『白痴』についてⅠ」で「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と記していたことには強い違和感を覚えた。

 さらに、小林秀雄のドストエフスキー論を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「物語」であり、これは「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

 ただ、これまで上梓した著作でほとんど小林秀雄に言及しなかったのは、長編小説『白痴』をきちんと読み解くことが意外と難しく、イッポリートやエヴゲーニーの発言に深く関わるグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの作品をも視野に入れないとムィシキンの恩人やアグラーヤの名付け親など複雑な人物構成から成り立っているこの長編小説をきちんと分析することができないことに気づいたためである。

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)でようやく黒澤監督の映画《白痴》を通してこの長編小説を詳しく分析したが、小林秀雄のドストエフスキー論について言及するとあまりに議論が拡散してしまうために省かざるをえなかった。

 少年の頃に核戦争の危機を体験した私がベトナム戦争のころには文学書だけでなく宗教書や哲学書なども読みふけり、『罪と罰』や『白痴』を読んで深い感銘を受けたことや、『白痴』に対する私の思いが揺らいだ際に「つっかえ棒」になってくれたのが黒澤映画《白痴》であったことについては前著の「あとがき」で書いた。ここでは簡単に小林秀雄のドストエフスキー論と私の研究史との関わりを振り返っておきたい。

 *    *  *

  小林秀雄は、戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書いた。そして、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていた。〔二四八〕

 しかし、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆していた。この文章を読んだときには小林が戦争という悲劇を体験したあとでも、自分が創作した「物語」を守るために、原作を矮小化して解釈していると感じた。

  それゆえ、修士論文「方法としての文学──ドストエフスキーの方法をめぐって」(『研究論集 Ⅱ』、一九八〇年)では、感覚を軽視したデカルト哲学の問題点を批判していたスピノザの考察にも注意を払いながら、社会小説の側面も強く持つ『貧しき人々』から『地下室の手記』を経て『白痴』や『未成年』に至る流れには、シェストフが見ようとした断絶はなく、むしろテーマの連続性と問題意識の深まりが見られることを明らかにしようとした。

  上梓した時期はかなり後になったが、厳しい検閲制度のもとで戦争の足音が近付く中で、なんとか言論の自由を確立し農奴制を改革しようとしたドストエフスキーの初期作品の意味をプーシキンの諸作品などとの関わりをとおして考察した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、二〇〇七年)には、私の大学院生の頃の問題意識がもっとも強く反映されていると思える。

 ラスコーリニコフの「罪の意識と罰の意識」については、「『罪と罰』における「良心」の構造」(『文明研究』、一九八七年)で詳しく分析し、その論文を元に国際ドストエフスキー学会(IDS)で発表を行い、そのことが機縁となってイギリスのブリストル大学に研究留学する機会を得た。イギリスの哲学や経済史の深い知識をふまえて、『地下室の手記』では西欧の歴史観や哲学の鋭い批判が行われていることを明らかにしていたピース教授の著作は、後期のドストエフスキー作品を読み解くために必要な研究書と思える(リチャード・ピース、池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版企画、二〇〇六年)。

 この時期に考えていた構想が『「罪と罰」を読む──「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、一九九六年、新版〈追記――『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』〉、二〇〇〇年)につながり、そこでラスコーリニコフの「良心」観に注意を払いつつ、「人類滅亡の夢」にいたる彼の夢の深まりを考察していたことが、映画《夢》の構造との類似性に気づくきっかけともなった。

 日露の近代化の類似性と問題点を考察した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)でも、雑誌『時代』に掲載された『虐げられた人々』、『死の家の記録』、『冬に記す夏の印象』などの作品を詳しく分析することで小林秀雄によって軽視されていた「大地主義」の意義を示そうとした。

 プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』については授業では取りあげていたが、僭称者の問題を扱う予定の『悪霊』論で本格的に論じようとしていたためにこれまで言及してこなかった。今回、この作品における「夢」の問題にも言及したことで、『罪と罰』から『悪霊』に至る流れの一端を明らかにできたのではないかと考えている。

 「テキスト」という「事実」を自分の主観によって解釈し、大衆受けのする「物語」を「創作」するという小林の方法は、厳しい現実を直視しないで威勢のよい発言をしていた鼎談「英雄を語る」*などにおける歴史認識にも通じていると思える。このような方法の問題がきちんと認識されなければ、国民の生命を軽視した戦争や原発事故の悲劇が再び繰り返されることになるだろう。

 「『罪と罰』をめぐる静かなる決闘」という副題が浮かんだ際には、少し大げさではないかとの思いもあった。しかし、本書を書き進めるにつれて、映画《白痴》が小林の『白痴』論に対する映像をとおしての厳しい批判であり、映画《夢》における「夢」の構造も小林の『罪と罰』観を生涯にわたって批判的に考え続けていたことの結果だという思いを強くした。黒澤明は映画界に入る当初から小林秀雄のドストエフスキー観を強く意識しており、小林によって提起された重たい問題を最後まで持続して考え続けた監督だと思えるのである。

 時が経つと不満な点も出て来るとは思うが、現時点では本書がほぼ半世紀にもわたる私のドストエフスキー研究の集大成となったのではないかと感じている。

 黒澤明監督を文芸評論家・小林秀雄の批判者としてとらえることで、ドストエフスキー作品の意義を明らかにしようとした本書の方法については厳しい批判もあると思うので、忌憚のないご批判やご助言を頂ければ幸いである。

 

注 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2014年5月3日、注の加筆:7月14日)

 

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎

   

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 一、フクシマの悲劇

 二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起きたのは、大学の会議が終わった直後のことで、立っていることも出来ないような大きな揺れだった。慌てて会議室から外に出たあとでもう一度大きな揺れを感じながら、地殻変動でできた日本が地震大国であることを実感した。

 しかも、一九八六年のチェルノブィリ原発事故の際には長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、風向きによっては被爆する可能性もあったが、ソ連のニュースだけでなく、日本大使館からもほとんど情報が伝わらずに、西欧から来た留学生たちが自国の大使館から得てくる情報に頼るしかなかったという経験をしていた*1。

 テレビやインターネットに映し出された福島第一原子力発電所の静止画像から目を離すことができずに食い入るように画像を見つめ続けていた私は、同僚の一人から日本の技術は進んでいるので大丈夫ですよと慰められた。

 しかし、イギリスのブリストル大学で研究をしていた一九九五年一月には、日本からの電話で慌ててテレビのニュースをつけると阪神淡路大震災で町中が燃えており、翌日には大地震でも大丈夫と喧伝されていた高速道路の橋桁が大きく曲がっている写真が大きく新聞に載っていた。その記事を読みながら、関東大震災から五〇年目の一九七三年に発表された小松左京の『日本沈没』を思い出して、日本では自然の恩恵は強調する一方でその猛威に対する認識はきわめて甘いのではないかという不安を強く持っていた。

 実際、大地震で止まった電車の回復を待っている時に福島第一原子力発電所の「炉心が冷却できない状態にある」ことを知った。翌朝も目覚めてからは三〇分おきにテレビのニュースで何事も起きていないことを確認していたが、午後四時過ぎに危惧していたことが起きた。

 一号機が水素爆発を起こしたあとで明らかになったのは、政・官・財が一体となって「絶対安全」だと宣伝していた原子力発電所には原子炉を冷やすために水を放水する消防車やきちんとした防護服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。そして、使用済み核燃料が放置された古タイヤのように燃え出し、原子炉がメルトダウンして放射線が空気中に放出されただけでなく、被爆した大量の水が海に流れ出た。チェルノブイリ原発事故にも匹敵するような大事故は、核実験を続けてきたフランスやアメリカの技術支援によってようやく、最大の危機を脱したが、汚染水の流出は事故から三年経った現在も止まっていない。

二、黒澤映画《夢》と長編小説『罪と罰』における夢の構造

 刻一刻と悪化する福島第一原子力発電所の状況を見ながら思い起こしたのは、一九九〇年に公開された全八話からなるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」で今回の事故を予言していたとも思えるほどの迫力で原発事故が描かれていたことであった。

 アメリカの水爆実験によって被爆した「第五福竜丸」事件の後で撮った映画《生きものの記録》(シナリオの最初の題名は『死の灰』)では、原爆実験や核戦争の危険性を本能的に感じて日本からブラジルへと移住しようとした老人の決意と苦悩を描き、そのラスト・シーンでは精神を病んで精神病院に収容された主人公が夕日を見て「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンを描いていた*2(『全集 黒澤明』第四巻、一四〇頁――以下、巻数をローマ数字で、頁数を漢数字でかっこ内に記す)。

 その場面からは私は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」を強く連想したが、富士山に建設された六つの原子力発電所が事故で次々と水素爆発を起こすという「赤富士」のシーンで黒澤明監督は、子供を連れて逃げ惑う母親に「原発は安全だ」と説明し原発を「国策」として推進してきた関係者を「縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」と悲痛な声で批判させていた(Ⅶ・二〇)。

 それゆえ、制作費などさまざまな問題などを乗り越えて、この映画を公開していた黒澤明監督の先見の明を改めて強く感じるとともに、原発の危険性に気付きながらもあまり発言をしてこなかった自分の不明を深く恥じた。

 しかも事故後に『黒澤明の遺言「夢」』という著作を読んで、映画《夢》(一九九〇年、脚本・黒澤明)の「ノート」に、黒澤明監督がドストエフスキーの『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の一節をそのまま書き写しただけでなく、その横に「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していたことを知った*3。  

 このことに注目してこの映画を見直すと、高利貸しの老婆を殺す前に見た「やせ馬が殺される夢」が、少年時代の体験と自然への畏れを描いた第一話「日照り雨」や、「桃の精」の苦しみが描かれている第二話「桃畑」などに対応していることに気づく。

 第三話「雪あらし」で描かれている「雪女」の哀しみは、『罪と罰』におけるソーニャの哀しみにも通じているだろう。主人公のラスコーリニコフが老婆を殺した後で見る「殺された老婆が笑う夢」は、死んだ兵士たちの亡霊が出て来る第四話「トンネル」につながっていると思える。

 第六話「赤富士」の後で描かれている第七話「鬼哭」では、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の根底にあった「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」と「人類滅亡の悪夢」との深い因果関係が示唆されている。

 さらに、第八話「水車のある村」において、「近頃の人間は、自分達も自然の一部だという事を忘れている」と語り、「特に学者には、頭がいいのかも知れないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いので困る」と語る「モーゼの様な髭を生やした」老人の言葉は、血で「汚した大地に接吻なさい」と語ったソーニャの言葉に従って自首をしたラスコーリニコフがなぜ、シベリアで「復活」しえたのかという深い理由を説明しているとさえ思える。

 ではなぜ、偶然の一致とはいえないようなこれほどの類似が見られるのだろうか。

この意味で注目したいのは、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄が、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していたことである*4(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁── 以下、巻数と頁数を〔〕内に六・四五、五三のように表記する)。

 さらに小林は、第四章で詳しく見るように、一九三六年に書いた映画評ではスタンバーグ監督の映画《罪と罰》などに言及しながら、表現手段としての「文学」と「映画」を比較して、映画では『罪と罰』の深みを描くことはできないと批判していた〔四・二二四~二二六〕。

 一方、黒澤の映画における師といえる山本嘉次郎監督は、夏目漱石の『坊つちやん』を映画化して一九三五年に公開し、その翌年には『吾輩は猫である』を原作とした映画《吾輩は猫である》も公開していた。映画という表現手段を批判した小林の記述は、一九三六年にPCL映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社し、一九三八年には映画《綴方教室》に製作主任として参加する黒澤に、文学作品の映画化についての深い考察を迫っていたといえるだろう。

  実際、小林秀芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していたが〔一・一五二〕、戦後の一九五〇年に公開した映画《羅生門》で黒澤は、夏目漱石の弟子にあたる芥川の深いドストエフスキー理解と芥川作品の現代的な意義を示していた。

 さらに最近になって、戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本に黒澤が深く関わっていたことが明らかになった*5。本論で詳しく見るように小林秀雄はシベリア流刑後にドストエフスキーが唱えた「大地主義」に否定的だったが、黒澤は『死の家の記録』などこの時期に書かれた作品を高く評価しており、彼が中心的な役割を担ったこの映画の脚本でも『虐げられた人々』からの影響がすでに強く見られる。

 ことに、沖縄で冤罪から死刑にされかかったことのある復員兵を主人公とした映画《白痴》の結末は、『白痴』の主人公ムィシキンがスイスからではなく、「シベリヤから還つた」とし、その結末についても「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何んの責任も持たない」と一九三四年に「『白痴』についてⅠ」で書いていた小林の記述とは正反対ともいえるほどに異なっていたのである〔六・一〇〇〕。

三、消えた「対談記事」

 小林秀雄は映画《白痴》を初めとする黒澤映画についてはほとんど語っていないので、彼が黒澤明監督のドストエフスキー観をどのように考えていたかは判らない。しかし小林は、映画《白痴》が公開された翌年の一九五二年から五三年にかけて八章からなる「『白痴』についてⅡ」を発表し、その後半では黒澤映画《白痴》ではあまり描かれていなかったレーベジェフやイッポリートに焦点をあてて論じていた。

 興味深いのは、その小林が一九五六年一二月に黒澤との対談を行っていたことである*6。この前年に黒澤は映画《生きものの記録》を公開していたが、「第五福竜丸」事件をきっかけに三千万以上の署名が集まるほど高まった反核の動きは、「ついに太陽をとらえた」と題して読売新聞に連載された特集や「原子力平和利用博覧会」の開始によって急速に流れが変わり、この時期には原爆の危険性を指摘することはすでに「季節外れ」のように見なされるようになっていた*7。

 しかし、第二章で詳しく見るように、小林秀雄は一九四八年に「人間の進歩について」と題して行われた物理学者の湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」の「平和利用」という湯川の考えの危険性をいち早く指摘し、「道義心」の視点から厳しく批判していたが、その後に行われた黒澤明との対談で湯川秀樹は映画《生きものの記録》を高く評価していた。

 『白痴』の結末に対しては正反対の見解を示す一方で、「原子力エネルギー」の危険性を深く認識していた二人の巨匠がどのような対談を行っていたのだろうか。残念ながら、掲載されれば必ず売り上げを伸ばすと思われる二人の著名人による対談記事が雑誌に載らなかったために、対談の詳細な内容は明らかになっていない。

 しかし、飛行機事故などでは「ブラックボックス」を探し出して回収することが事故解明の第一歩とされるが、幸いこの時の対談については、その時の写真が残されているだけでなく*8、司会者などの短い回想も残されている。その後の二人の記述や映画などからは、『白痴』の結末の解釈などにたいする強いこだわりが感じられ、この時の対談が巨匠たちに残した痕跡の深さが感じられる。

 原発の推進が「国策」となると小林秀雄は「原子力エネルギー」の危険性についてほとんど語らなくなったが、映画《赤ひげ》の制作が発表された翌年の一九六四年に発行した『「白痴」について』(角川書店)では短い第九章を加えて、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだらう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである(後略)」と書いていた〔傍線引用者。六・三四〇〕。名指しこそしてはいないものの、「不注意な読者」という表現は黒澤明監督を強く意識している可能性が高いと思われる。

 一方、映画《どですかでん》が営業的な失敗に終わった後で発作的に自殺を図っていた黒澤は、探検家アルセーニエフと自らをナナイ人(大地の人)と呼ぶ少数民族・ゴリド族の狩人デルスとの交流を描いた『デルスウ・ウザーラ』を原作とする映画《デルス・ウザーラ》をシベリアで撮って見事に復活した*9。    

この映画を一九七五年に日本で公開した後に若者たちと行った座談会で黒澤明は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語ったが*10、その言葉に強い反発を覚えたかのように小林は、スリーマイル島の原発事故が起きた一九七九年に河上徹太郎と行った対談でも「『白痴』はシベリアから還ってきたんだよ」と繰り返して主張している*11。

 このような『白痴』の結末をめぐる互いを強く意識したと思われる両者の発言に注目するとき、映画《夢》はドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」の成果だと言っても過言ではないとさえ思える。

 本書ではまず作者と主人公の問題に注目しながら、ムィシキンが「シベリヤから還つた」とする小林秀雄の『罪と罰』論と『白痴』論との関連を分析し、さらに主な登場人物の解釈の問題点を明らかにすることで、本論の方向性を確認する。第一章からは小林秀雄のドストエフスキー観と比較しつつ、映画の公開順に映画《白痴》から映画《夢》にいたる黒澤明監督のドストエフスキー理解の深まりに迫ることにしたい。

 消えた「対談記事」の謎に注目しつつ、小林秀雄と黒澤明のドストエフスキー観を具体的に比較することで、なぜ黒澤監督が映画《夢》で東京電力福島第一原子力発電所の悲劇を予言しえたかという「謎」にも迫ることができるだろう。

 

*1 チェルノブイリ原発事故については、「高橋誠一郎 公式ホームページ」の「映画・演劇評」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」を参照。

*2 『全集 黒澤明』第四巻、岩波書店、一九八八年、一四〇頁。

*3 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、二〇〇五年参照。

*4 『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、四五頁、五三頁。

*5 (編)石割平、円尾敏郎、谷輔次『はじめに喜劇ありき』ワイズ出版、二〇〇五年、一五一頁。

*6  黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明』第四巻、講談社、二〇一〇年、八一六頁(以下、『大系 黒澤明』と略記して、巻数と頁数のみを記す)。

*7  中日新聞社会部『日米同盟と原発──隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年参照。

*8  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、三六六頁。

*9  アルセーニエフ、長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ──沿海州探検行』東洋文庫、一九六五年、三〇八頁、映画化に際しては日本語では発音しにくいことから、主人公のデルスウの名前はデルスと表記されたので、本書でも基本的にはデルスと記す。

*10  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、二八八頁。

*11  小林秀雄『考える人』春季号/新潮社、二〇一三年、四五頁。

 

 

「生命の水の泉」と「大地」のイデア

 

(スラヴ圏)スラヴのコスモロジー

 〈「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉

                           

はじめに――投げかけられた問い

 お手元にレジュメは届いていますでしょうか?

2枚目のところにスラヴの神話や民話に出てくる森の精や水の精などの絵があります。

私の専門はドストエフスキーなのですが、『罪と罰』とか『白痴』という世界がそういうロシアの民衆的な民話的な世界や宇宙観とも深く結びついており、それが普遍性をおびているために世界中で読まれて深い感動を与えているという話を今回はしたいと思いました。ただ、レジュメにも書きましたけれども、3月に起きた原発事故のために私のふるさとの福島県の二本松でも祖先の墓の上に放射能が降り注ぐなど、日本の大地、大気、川が汚されるという大変な事態がおきました。

さらに私は25年前にチェルノブイリで起きた原発事故の際にモスクワに滞在していましたが、そのときに留学生を引率していたので事故の情報の問題、当時のソ連から情報が流れてこないというのはわかるのですが、日本大使館からも流れてこない。それでヨーロッパの留学生たちがそれぞれの大使館から持ってくる情報を集めてどう対応すべきかなどを考えざるを得なかったということがありました。

実は司馬遼太郎の作品に入っていくきっかけも情報の問題からです。司馬さんは大地震の問題についてもたびたび書いています。たとえば、『竜馬がゆく』の中でも竜馬が大地震に際して深く感じることのできる詩人のような心を持っていたと冒頭近くで説明されています。原発は「国益」という形で進められてきましたが、果たして一部の人たちが握っている情報が我々にちゃんと伝えられているのか、その問題が明治以降もいまだに続いていると思えます。

一方、『坂の上の雲』の第3巻において司馬さんは、東京裁判におけるインド代表判事のパル氏の言葉を引用しつつ、「白人国家の都市に落とすことはためらわれたであろう」と原爆投下を厳しく批判しておりました。実はこの原爆の投下の問題は、原発の問題と結びついており、司馬さんはチェルノブイリ事故の後で「この事件は大気というものは地球を漂流していて人類は一つである、一つの大気を共有している、さらにいえばその生命は他の生命と同様もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていました。

実際にチェルノブイリについてはヨーロッパ各国が大変な危機感を持ちました。私の場合は、幸い住んでいたモスクワの方には風の向きが違っていたので流れてこなかったのですが、風の向きが変わればどのような被害が及ぶかはわからなかったのです。それゆえ、今回はスラヴやロシアのコスモロジーを視野に入れることで民話的なレベルから見ても原発がおかしいということを明らかにしていきたいと思います。

*   *   *

先ほど見ていただいたのはギランの『ロシアの神話』という本に掲載されている絵ですが、スラヴでは自然崇拝が強く、ことに大地は「母なる湿潤の大地」というふうに讃えられており、このような世界観はドストエフスキーが『罪と罰』の後半で描いていますが、それよりも前にプーシキンがおとぎ話のような形で書いていました。

時間がないので、ごく一部を紹介します。「入り江には緑の樫の木があった。その樫の木には猫が繋がれていた。そして右に歩いては歌を歌い、左へ行ってはおとぎ話を語る。そこには不思議なことがある。森の精が徘徊し、水の妖精ルサールカが枝に座る」。こういう形で民話の主人公を紹介したプーシキンは、「そこにはロシアの精神がある、ロシアの匂いがする」と続け、物知りの猫が私に語った物語のひとつをこれからお話しましょうという形で『ルスランとリュドミーラ』というおとぎ話が始まります。

『罪と罰』のあらすじについては、ほとんどの方がご存知のことと思いますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害するにいたる過程とその後の苦悩が描かれています。ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと、民衆の感覚を失ってしまったという批判をしていることです。

たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが彼にはわからなかったのです。しかし彼はシベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになるのです。

このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、しかしロシアの民話を集めてロシアのグリムとも言われているアファナーシエフの『スラヴ民族の詩的自然観』の第一巻が既に『罪と罰』が書かれている時期に出版されていました。そのことを指摘した井桁貞義氏は、ウクライナやセルヴィアを初めスラヴには古くから聖なる大地という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。

さらにソーニャという存在が囚人たちから、「お前さんは私らのやさしい慈悲深いお母さんだ」と語られていることに注目して、ソーニャという女性が大地の神格であると同時に聖母の意味も背負っているという重要な指摘をしています。

 このようなロシアの自然観や宇宙観は民話などでやさしく語られており、日本でも知られているものがあるので幾つか紹介して、それが文学作品にどうかかわっているかを少し見てみます。

 まず、『イワンと仔馬』という作品は、これは永遠の生命を持つ火の鳥が出てくる作品で、手塚治虫の『火の鳥』にも影響を与えています。次に『森は生きている』もあちこちで上演されることもありますしアニメーションにもなっているので、知っている人も多くおられると思いますが、これは月の精の兄弟たちとみなしごの少女、そしてわがままな女王との物語です。

 わがままな若い女王の命令で少女は、大晦日に雪深い森の奥に春の花の待雪草を探しに行かされるのですが、たまたま焚き火を囲んでいた12人の兄弟(十二ヵ月の精)たちと出会い、少女が森を大切にして一生懸命に生きているのを知っていた彼らから待雪草を贈られるのです。

一方、人間関係のみで成立している「城」の世界しか知らなかったやはり孤児だった女王は、自分でも待雪草を摘みたいと願って、私も森に行くから案内しなさいと命令して森に行く。つまり、「支配する者」と「支配される者」からなる「城」において絶対的な権力者となった女王は、「自然」や「季節」をも「支配」しようとしたのです。つまり「城」というのは、ここでは現代の日本に言い換えれば「原子力村」と考えればわかりやすいでしょう。「原子力村」の論理だけで生きている人は、「自然」のことを理解できないために、「自然」や「季節」をも支配しようとする。しかし実際には、そういうことはあり得ないのです。そのために女王も「森」に行くと、一瞬にして再び冬の季節に戻って彼女は自分の無力さを感じるのですが、やさしい少女に救われるというストーリーです。

ここで注目したいのはやさしい少女を『罪と罰』のソーニャに、それから自然をも支配できると考えている女王をラスコーリニコフに置き換えると、骨格としては『罪と罰』と同じような自然観が浮かび上がってくるということになることです。

 それから『雪娘』というおとぎ話では「桃太郎」などと同じように、子供に恵まれなかった老夫婦が雪を丸めて雪だるまをつくるとその雪だるまの女の子は、老夫婦の気持ちを理解したかのように動き出して、その家の娘になります。しかし、「かぐや姫」が時間がたって、月に戻っていくように、その「雪娘」も春になると一筋の雲になって、天に昇ってしまうのです。

このおとぎ話について先ほどのアファナーシエフはこういうふうに解釈しています。「雨雲が雪雲に変わる冬、美しい雪の娘が大地に、人間が住むこの世に降りてきて、その白さで人々を感動させる。夏が訪れると娘は大気の新たな姿をとり、地上から天に昇って軽やかな翼を持つほかのニンフたちと共に天を飛翔する」。

 すなわち、雪娘は溶けて「亡くなる」のではなく、別な形を取って生き続け、さらにまた季節が巡れば、「復活」するという考え方が、ロシアの民話を通して語られているということになります。

一方、『罪と罰』のエピローグでは、知力と意志を授けられた旋毛虫に侵されて、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地上に数名のものしか残っていないという主人公が見る「人類滅亡の悪夢」が描かれています。

実際、この作品が書かれた当時は、オーストリアとの戦いに勝ったプロシアが軍事力をつけたために、フランスとの間での戦争がおき、さらにロシアもまたそういう大戦争に巻き込まれるかもしれないという恐怖感が、欧州の世界で広まっていたのです。そして、軍事力の必要を各国が認識したために戦争に近代兵器が持ち込まれるのです。日露戦争では機関銃が登場し、第一次世界大戦でも用いられ、さらに第二次世界大戦では原子爆弾が用いられるということになります。

つまり長編小説『白痴』の時代は、ドストエフスキーにとって「ローマ帝国」の強力な軍事力でユダヤの反乱が鎮圧され、さらにキリスト教徒が弾圧された時代に書かれた『ヨハネの黙示録』の世界と重なるところが多く、「世界の終わり」への恐れとそれを救う「本当に美しい人」への熱烈な願いが記されていたといえます。

11月18日の新聞に「イラン攻撃現実に」という題で、イスラエルがイランの原発開発に強い危機感を抱いているという気になる記事があったので持ってきました。この記事は原爆と原発が結びついていることを物語っているでしょう。つまり、イランの原発開発はアメリカと仲がよかったときは認められていたのです。しかし革命後に政策が変わると、原発の開発は、いつ攻撃の対象になるかもしれないのです。つまり現代という「核の時代」では、原発が世界中の国で広まっていくということは、その国が政策を変えたときに核戦争のきっかけになりうるという危険性を持っているのです。

その意味で注目したいのは、『白痴』ではマルサスの人口論だけでなく、生存闘争の理論や、西欧近代の投機的な自由主義経済、さらに新しい科学技術の危険性が登場人物たちの会話をとおして批判されており、ことに近代文明を象徴する鉄道は『ヨハネ黙示録』の地上に落ちて「生命の水の泉」を混濁させる「苦よもぎ(チェルノブイリニク)の星」の話と結び付けられて解釈されていました。

それゆえ、チェルノブィリ原発事故が起きると『白痴』の予言性が話題となりましたが、それはチェルノブィリという地名が、「苦よもぎ」を意味する単語と非常に似ていたために、ロシアやウクライナ、ベラルーシなどでは原発がそういうのろわれたものであり、それを作ったソ連の政権が神の罰を受けたという批判が強く出たのです。そして、このような『黙示録』の解釈も影響して、この原発事故は神による共産党政権に対する罰だという解釈が広がったことや、原発事故による莫大な経済的損失は、ソ連政権が崩壊する一因となったのです。

 一方、非常に自然環境に恵まれている日本から見ると旧約聖書などで描かれている神の罰という考えは、非情に見えます。しかし古代からのことを考えると、神や天というのは、人智を超えた存在であって、富士山も単に美しくて高い存在であっただけではなくて、大噴火を起こして、我々日本人を深く畏怖させたのです。これについては明日のシンポジウムでも論じられると思います。

 こうして、大自然に対する畏怖というものは、これからの時代にも重要だと思えますが、放射能は水に流しても消えるものではなく「循環の思想」に反しており、大自然を汚すものだといえるでしょう。その意味でも早期の「脱原発」が求められており、そのためにはこの学会も含めて全力を尽くしていくべきではないかというのが、私の考えです。

 どうもありがとうございました。

日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

287-8

(高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに  日本の近代化とナショナリズムの覚醒

明治9年(1875年、以下、年号は原則として西暦で示す)に、ベルツはその日記に、「これは最も不思議千万の事ではあるが--今日の日本人は、自身の過去に就いては何事も知る事を欲していない。教養ある人士も、過去に引け目を感じているのである」とし、「何も彼も野蛮至極であった」と言明した者や…中略…「我等は歴史を持って居ない、我等の歴史は今から始まるのだ」とまで断言する者までいるという驚きを記している*1。

だが、実はこのような自己の過去を否定するという精神の働きは、一部の日本人知識人の特殊性を物語るものではない。たとえば、社会学者の作田啓一は『個人主義の運命――近代小説と社会学』で、「ナポレオン戦争を支えたフランス民族のナショナリズム」では、「フランス革命によって到達した民主主義的な諸価値を世界に拡げること」を「彼らの使命」と説明している*2(以下、本書をKと略記し、本文中に頁数を示す)。

このような思想的潮流の中で、フランスの文明を普遍的な文明ととらえたロシアの思想家チャアダーエフは、ナポレオンを破った祖国戦争(1812)の後でも農奴制のような非近代的な制度が改革されないことに悲観し、ロシアはギリシア正教を受け入れたために「人類の普遍的な発展」から孤立したのだと厳しく批判した。こうして、それ以降ロシアでは発展のあり方をめぐって「欧化と国粋」の激しい対立が生まれることになったのである*3。

しかし、一方で「国民国家」の成立と自分たちを「普遍的な理念」の普及者として主張したフランスにおける民族意識の昂揚は、隣国ドイツやギリシア正教を国教とするロシアにおいては、激しい反発から自国の民族意識の高まりを生みだし、独自の「国民性」が求められるようになったのである。

それはロシアに限ったことではなく、いわゆる「文明開化」が求められた明治維新以降の日本でも近代化の過程における「西欧化と土着」の問題が起きてくるようになる。なぜならば、ベルツの「日記」が書かれる3年前に政府は、西欧諸国からの強い要望もあり、キリスト教の禁制をも解いており、西欧文明を学ぶ機会も大幅に拡大したが、自らの普遍性を主張する「近代西欧文明」自身が、それ以外の諸文明の独自性や意義を否定する働きをも担っていたのである。

「西洋崇拝による土着軽視」とその反発としての「国粋」思想の勃興の流れに注目した比較文明学者の山本新は、このサイクルが日本ではほぼ20周年で周期的に交替しているという説を唱えた*4。吉澤五郎は近著でこのような「西欧化と土着」のサイクルを分かりやすく図示しているが、興味深いのは、サイクルの高揚期や低迷期などの節目とドストエフスキー受容が不思議と一致していることである*5。

すなわち、松本健一は「ドストエフスキイが熱狂的に読まれた時代が過去に五度ほどあった」とし、①、1892年前後 ②、1907年前後 ③、大正期 ④、1934年から1937年 ⑤、1945年から1950年を挙げているのである*6。

以下、本稿では「個人主義のゆくえを考えることは、ナショナリズムのゆくえを考えることに通じる」(K.201)とした作田啓一の考察を踏まえながら、比較文明論的な視点から第二次世界大戦に到るまでに時期を絞って日本におけるドストエフスキー受容と「欧化と国粋」のサイクルの問題の係わりを考察し、「文明の衝突」を乗り越える可能性を探りたい*7。

第1節  ロシアの近代化とロシア文学の受容

明治維新の初期に東京外国語学校の教員として招かれていたメーチニコフは、岩倉具視、木戸孝允、副島種臣などの「維新を指導した少数の国家的人物」をはじめとする多くの人たちが、ピョートル大帝の「熱烈なファンである」と書いた*8。

彼の言葉は誇張のようにも思えるが、実際、明治維新に際しては「ざんぎり頭をたたいて見れば文明開化の音がする」と歌われたように断髪令が出されたが、ピョートルもロシア人の意識を変えるために、成人男性が生やしていたあごひげを切り取ることや衣服を西欧式に改めるなどの命令を発しているのである。さらに彼は「ペテルブルク市長に命じて、定期的に夜会をひらかせ、貴族たちが夫人同伴で出席することを義務」づけたが、「わが国の『鹿鳴館』の先駆」だったのである*9。

また、明治政府は1871年暮れに西欧文明を早急に取り入れるために、「一国の政権の最高首脳部の大半をあげて、先進文明世界を視察し、これから学ぼうとする」使節団を1年以上にわたって西欧に派遣したが*10。ピョートル大帝もロシアの内政が安定しないなか250名もの随員と留学生を連れて、一年半にわたる長い西欧視察旅行に出かけていた。さらに、1872年12月に明治政府はそれまでの太陰暦を西暦(グレゴリオ暦)に改めるという大改革を行ったが、ピョートル一世も年号を天地創造の日から数え、1年の始まりを9月1日としていたそれまでのビザンツ暦を、西暦に近いユリウス暦に改めていた。

こうして明治政府は「殖産興業」と「富国強兵」をめざしたピョートル大帝の改革をなぞるかのように息せき切って「近代化」を進めたのであった。幕末の1862年にロシアを訪れた福沢諭吉も、当時のロシアには厳しい評価をしたものの、元禄の頃に行われたピョートル大帝の改革については、「学校を設け海陸軍を建て」、「堂々たる一大国の基(もとい)を開き、今日に至るまで、威名を世界中に轟かせり」と記した*11。

ところで、作田啓一はデュルケームなどの考えによりながら、「近代政治史とは、さまざまの特権を持った中間集団を国家が打ち砕く過程」であり、「この闘争を通じて、中世的な共同態は衰退してゆき、それに代わって国家と個人が社会の有力な構造要素」となってきたとし、こうして「国家の成長に伴って個人主義が発展してきた」と説明している(K.90-93)。

このことは強大な西欧諸国との接触によって開国を余儀なくされた日本が、近代国家の成立をめざして行った改革を例に取れば分かりやすい。明治維新に際し、明治政府は廃藩置県をも断行し、藩にも自治を許すそれまでの幕藩体制というゆるやかな制度を取りやめて、強大な中央集権国家の設立を目指したのである。このような「近代化」を推進したのが、それまでの日本を「半開」とし、西欧を「文明」と位置づけた福沢諭吉であった。彼は『学問のすゝめ』(1872)において「唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、富人となり」と書き、さらに「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」として新しい西欧の学問を学ぶことが「立身出世」につながると強調したのであった。このような見方は、同時に新政府が欲していた方向性でもあり、同じ年に学制が発布され公的な義務教育が始まり、これ以降「わずか数年の間に2万6千余校という小学校ができ」ることとなった。こうして、身分や貧富に係わらず、「富国強兵」という国家の要望に答える能力を有した者には「立身出世」が可能となったのである。

だが、作田が書いているように、「近代化が進み、公的生活において人々が参加する集団の規模が大きくなり、官僚制化してゆくと、公私の二つの領域において、人々は相互に異質的な要求に直面することを余儀なく」される。なぜならば、「自己を発展させよという個性の命令に忠実な個人」は、「どの方向へ向かうかの選択」という「苦しい自己決定を行ったあとに、葛藤と不満とが待ち受けているかもしれ」ないからだからである(K,113~4)。

このような事態を日本もむかえた。「中間集団」の文化を否定する一元的な価値の上からの強制や「西欧化」を強要する「文明開化」への反発は、すでに徴兵反対一揆(1873)や佐賀の乱(1874)などの形で噴出し始めていた。それが、ベルツが日本人知識人への驚きを記した翌年の1876年3月に「廃刀令」が出されると、同じ年の10月には神風連の乱や秋月の乱、萩の乱などが頻発することになり、その翌年には国力を二分した西南の役が起きることになった。さらに、これらの乱が鎮圧された後は、今度は武器ではなく筆を持って政府批判を繰り広げる「自由民権運動」が盛んになったのである。

このことは、日本の文明開化よりも150年以上も早くロシアの近代化を行ったピョートル大帝の改革とそれ以降の歴史の流れにも現れた。ロシアではピョートル大帝の死後、強国としての位置を築く一方で、相次ぐ宮廷クーデターの中で特権を増やした貴族とは正反対に、農民の隷属化が進んで過酷な農奴制が確立していた。このような中、ロシアの知識人たちは、国家のさらなる近代化を目指すとともに個人の自由や民衆の権利を求める運動をも展開したのだった。

これに対応しているのが、ロシア文学の受容だろう。島崎藤村は『千曲川のスケッチ』の奥書において、「明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根底に横たわる基礎工事であったとわたしには思われる」と書いている。このような困難な作業に大きな影響を及ぼしたのが、農奴制の問題を文学的な視点から鋭く批判したツルゲーネフの『猟人日記』の中の一編を言文一致体で訳した二葉亭四迷の『あひびき』である。

川端香男里は、ロシア文学が「1908年には翻訳の点数で英米文学を追い越し」ていたことに注意を促して、「昭和20年代までに世に出た作家や評論家でドストエフスキー、トルストイ、チェーホフから影響を受けなかった者はいない」と述べ、さらにロシア文学受容のピーク時について、ツルゲーネフは明治期、トルストイは大正期、そしてドストエフスキーは昭和期に入ってからとも指摘した*12。すなわち、官民挙げて日本が「文明開化」に精力を注いでいた明治には西欧派のツルゲーネフが流行り、日露戦争前後の時期からは平和論を唱えたトルストイの作品が好んで読まれたのであり、近代化の問題点が明白となり、近代西欧文明の批判の強まるとともに、ドストエフスキーが爆発的な広がりを見せたといえよう。

 

第2節  『罪と罰』の翻訳と北村透谷

内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て日本で最初に『罪と罰』を訳出したのは、1892年のことであった。だが、この時は充分な購買者数を得ることができずに、その前半部分を訳したのみで終わった。ただ、この時すでに鋭く本質的な理解を示した者に北村透谷がいる。

彼は「『罪と罰』の殺人罪」(1893)という書評において、ハムレットにも言及しながら、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と喝破したのである*13。

しかし、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、「近代化」の流れの中での苦しい体験の結果でもあった。ラスコーリニコフの母親は息子に家名をあげることを望んでいたが、透谷の母も小田原藩藩士だった夫の禄高が、佐幕派だったために3分の1に減らされる中で、息子の「立身出世」を強く期待したのだった。さらに、ラスコーリニコフは「非凡人の理論」を編み出して高利貸しの老婆の殺害におよんだが、1884年の5月には、近隣の三郡百余村に金を貸付け、「負債人民からの憎悪の的であった」高利貸露木卯三郎が殺害されるという事件が大磯で起きていた。

注目すべきは、透谷がその末尾近くで大隈重信に爆弾を投げた来島や、来日中のロシア皇太子ニコライ二世に斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」とすら述べていることである。

この言葉はドブロリューボフに言及した1862年のドストエフスキーの論評を思い起こさせる。ここでドストエフスキーは「深く神聖に真理を確信している」りっぱな人物が、「ただただ自分の高潔無比な目的を達せんがために」、誤った手段を取ることもありうるのだといい、問題は「彼が目的到達のために用いた手段に存する」ことは明瞭であると考察したのだった。このような考察は『罪と罰』などで、「十字軍」や「暴力革命」などの「手段」をも「正当化」した、「カトリック」や「テロリスト」への哲学的な批判として深化されていくのである。

透谷の考察は、「目的と手段」の問題を通じて「近代西欧文明」の問題の根元にも迫ろうとしたドストエフスキーの作品の本質にも肉薄していたのである。だが、ここでも透谷の理解は、「時代」とも深く係わっている。すなわち、1884年には朝鮮で「近代化」を推進しようとする独立党を押して内閣を作ろうとするクーデターが失敗した甲申事変が起きたが、この翌年には朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をしてこの資金を得ようとした大阪事件が起きた。この時透谷は「自由民権運動」に係わっていた親しい友人から参加を求められていたのである。

色川大吉は、この事件の首謀者の論理が1873年に「単身韓国にのりこもうとした西郷の征韓論の論理」や「一国の人心を興起して全体を感動せしむるの方便は外戦に若(し)くものなし」と1878年に記した福沢諭吉の「通俗国権論の論理」と基本的にはほぼ共通しているとし、彼らには「封建的な事大党をたおして、開明的な独立党に政権をとらせ、朝鮮人民への連帯と友情をしめそう」とする姿勢もあったことに注目している*14。すなわち、彼らの論理には、ロシアの現状を打破するためにポーランドの独立運動にも理解を示したドブロリューボフたちの考えに近いものもあったのである。

だが、透谷はこのような「目的」を達するために、強盗のような「手段」を取ることには賛成できず拒否するという、ちょうど『悪霊』(1871~2)のシャートフ的な体験を有していたのであり、その後彼自身もキリーロフのように若くして自殺した。

 

第3節  近代化の深化と夏目漱石

夏目漱石が『三四郎』を書き上げたのは、1908年のことであった。この時期までに日本は急速な近代化を経て、日清戦争(1894~5)や日露戦争(1904~05)で勝利をおさめ、朝鮮での勢力を強めるなど「富国強兵」に成功していた。だが、ちょうどポーランドを分割し、コーカサスをも併合して領土の拡大に成功したロシアが、国家の強大化に反して民衆のレベルでは農奴化がかえって進んできたように、日本でも「強大な国権」への批判が下から噴出し、このころから価値の2分化が顕著になっていた。

このような近代化の苦悩を象徴的に物語っているのが、政府の派遣によりイギリスに留学し、帰国後に教鞭を取っていた東京帝国大学での職を辞して、近代日本の知識人の苦悩を描く小説を書くことになる夏目漱石だろう。

司馬遼太郎は『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と規定するとともに、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘している*15。

この指摘は「ペテルブルグほど人間の心に暗く、激しく、奇怪な影響を与えるところは、まずありますまいよ」と語り、「これは全ロシアの政治的中心なので、その特性が万事に反射せざるをえません」と続けた『罪と罰』の登場人物スヴィドリガイロフの言葉を思い起こさせる。実際、ロシアの首都サンクト・ペテルブルクもピョートル一世により、西欧の科学技術を大幅に取り入れるために「西欧への窓」として建設されたのである。

しかも、司馬は1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことに注目し、それ以降、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注目し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと規定している。

司馬遼太郎の読みは『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退した若者を主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ている。すなわち、主人公のラスコーリニコフの妹ドゥーニャの婚約者で、今まさに首都に法律事務所を開こうとしていた弁護士のルージンは「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか、すべてそうした」、「いっさいを残りなく見ようとするには、やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べていたのである。

このようなルージンの「文明観」を、ラズミーヒンは「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判する。このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ている。

実際、福沢は日本が「開国20年の間に、200年の事を成した」と「文明開化」の成功を誇ったが、一方、漱石はすでに『三四郎』において自分と同じ年齢の登場人物広田に「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた300年の活動を40年で繰返している」と「皮相上滑り」な「文明開化」を批判させたのである*16。

この意味で注目したいのは、『三四郎』に先だって朝日新聞に発表された二つの作品である。すなわち、『三四郎』が書かれる直前には、島崎藤村が北村透谷などの若者たちを主人公とした作品『春』を発表しており、さらにその直前には漱石が、足尾銅山をテーマにした『坑夫』という作品を発表していたのである。

立松和平はこの前年の1907年に「足尾銅山で鉱夫たちにより大暴動が起こり、軍隊が出動して鎮圧」されていたことに注意を向けて、「足尾銅山は、富国強兵の最先端を走っていた。…中略…日露戦争で使われた鉄砲の玉は、ほとんどが足尾で産出した銅を原料としていたといわれている」と指摘している*17。このような大量生産の結果、足尾では、現在の環境汚染の先駈けとも言える「鉱毒事件」が発生したのである。

このように見てくる時、「西欧文明を目的」とした福沢の「文明観」は、近代化を要請した「時代」の産物であり、一方、福沢よりも30年ほど遅れて生まれた漱石は、「文明開化」の結果発生した近代化の負の面をも見ねばならなかったと言える。

 

第4節  近代化の矛盾と「近代の超克」論

漱石は『三四郎』において広田先生に「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせ、このままでは「亡びるね」とさえ断言させていた。司馬遼太郎はこの言葉に注意を促して、「ひげの男の予言がわずか38年後の昭和20年(1945)に的中するのである」と記した*18。

そして、司馬は日露戦争後にロシアから充分な戦後補償を得られなかったことを不満として、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」たことを重視し、ことに放火にまで走った「日比谷公園に集まった群衆」こそが、「日本を誤らせたのではないか」と記している。そして、司馬は「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべき」だと鋭く批判していた。

ナショナリズムの加熱がどうしてこのような結果を招くかを、作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している(K.110)。

ここで注目したいのは、作田が「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついていることを指摘して、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘していることである(K.201)。つまり、お互いに自国の「正義」をかざして戦った第一次世界大戦では、フランスなどが勝って、「自民族」の優秀さを謳歌したが、それは戦争に敗れて経済的な打撃だけでなく、精神的にもドイツ人を深く傷つけてしまったのである。こうして、「自尊心」をも侮辱されたと感じた中で、ラスコーリニコフの「非凡人」の理論を「民族」にまで拡大して、「優秀な民族」は、「悪い民族」を滅ぼすべきだと主張し、ユダヤ民族の抹殺を謀ったヒトラーの理論が生まれてくることになったのである*19。

日本における『罪と罰』の受容の波が太平洋戦争へと突入する時期に高まったのも、このような流れと無関係ではない。松本健一は真珠湾攻撃の翌年に出版された堀場正夫の『英雄と祭典』にふれて、彼が『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なしたことを紹介している*20。

むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、きわめて問題があるが、このような「読み」には、時代的な背景もあった。ニーチェの思想から強い影響を受けたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人としていたるとした*21。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですらも、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在に成っていると指摘して、書かれている彼の更生をも否定したのであった*22。

それは「近代人が近代に勝つのは近代によってである」とした小林の福沢的な近代観から導かれたものでもあった。こうして、堀場の理解は太平洋戦争の直前に「近代の超克」を謳ってなされた日本の著名な知識人たちによる討論のテーマや主張とも重なり合うものだったのである。

だが、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「非凡人の理論」から殺人を犯したラスコーリニコフの悲劇を描くとともに、それに対抗する形でロシア正教の敬虔な信者ソーニャの苦難と彼女によるラスコーリニコフの救いを対置していた。そして、『地下室の手記』(1864)では主人公に、バックルによれば「人間は文明によって穏和に」なるなどと説かれているが、ナポレオン戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと、「近代西欧の<知>」への鋭い批判を投げかけていた。実際、『戦争の社会学』によれば、すでに「フランス革命からナポレオン帝国の戦争」(1792-1815)の間に、「巻き込まれた人口は一億人。殺害されたものは200万人以上」だったのである*23。

こうして、お互いに他国によって滅ぼされないようにと「富国強兵」と武器の改良に励んだ結果、原子爆弾さえも製造されたことによって、第二次世界大戦では5000万人を越える戦死者を出すことになるのである。

作田啓一は「第二次大戦以降、自立ナショナリズムは、かつてヨーロッパに支配されていた諸民族のあいだにおいて燃え上がる」ようになったと指摘しているが、このような状況はオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した第一次世界大戦前のヨーロッパでも起きたし、さらにソ連邦が崩壊した後にも、世界的なレベルでナショナリズムの高まりが起きている。そして、これに連動する形で最近の日本でも「国家」に価値を置くことによって、このような不安定さや混乱を回避しようとするナショナリズム的な発言や行動が多く見られるようになってきた。

だが、それは一時的には国内の矛盾を解決するかに見えるが、ひいては「国権と民権」の対立だけではなく、「国益と国益」との対決を引き起こして、ハンチントン氏が指摘するような第三次世界大戦につながる危険性を含んでいる。他方、作田は「超大国の自尊心は、核戦争の危機をかもし出す条件の一つとなって」いると指摘しているが、ソ連邦の崩壊とともに、核物質や核技術も海外へと流出した現在、大国ばかりでなく、小国でさえもが「自国の自尊心」から核戦争に到る危険性が出てきているのである。

比較文明学者の神川正彦は、「近代」の「学的パラダイム」が、ナポレオン以後に成立した国民国家を成立させている「ナショナリズム」と同じように、「ディシプリン(専門個別科学領域)の自律性」にもとづいた「単純化と排除のパラダイム」であると分析している*24。

「文明の衝突」が語られるようになった現在、近代的な古いパラダイムを克服して、「文明の共存」を可能にするような新しい「学的パラダイムの確立」が、焦眉の課題となっている。

 

*1 『ベルツの「日記」』、濱邊正彦訳、岩波書店、昭和14年、14~15頁、なお、引用に際しては新かな、新字体に改めた。

*2  作田啓一、『個人主義の運命――近代小説と社会学』、岩波新書、107頁。

*3  高橋「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエーフスキイの西欧文明観」参照。神川正彦、川窪啓資編、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年、50~63頁。

*4  山本新、神川正彦・ 吉澤五郎編『周辺文明論ーー欧化と土着』、刀水書房、1985年。

*5  吉澤五郎、『世界史の回廊--比較文明の視点』、世界思想社、1999年、96頁

*6  松本健一、『ドストエフスキーと日本人』、朝日新聞社、昭和50年。

*7  本稿は、東海大学で行われた比較文明学会の公開シンポジウムで「『欧化と国粋の「サイクル』克服の試み――ドストエフスキーの受容と司馬遼太郎文明観」という題名で発表した論考(『比較文明』第16号、2000年、146~151頁)に、日本における『罪と罰』の受容と「欧化と土着」の問題に焦点を絞って、加筆したものである。なお、ドストエフスキーの訳は『ドストエフスキー全集』(新潮社)により、巻数と頁数を本文中に( )内に示す。

*8  メーチニコフ、渡辺雅司訳『亡命ロシア人が見た明治維新』、講談社学術文庫、1982年、25頁。

*9  相田重夫、『帝政ロシアの光と影』(『人間の世界歴史』、第12巻)、三省堂、1983年、128頁。

*10  井上清、『明治維新』、(『日本の歴史』、第20巻、中央公論社、200頁)。

*11  福沢諭吉の文明観については、高橋「日本の近代化とドストエーフスキイ――福沢諭吉から夏目漱石へ」参照。(『日本の近代化と知識人』、東海大学出版会、2000年、所収)。

*12  川端香男里『ロシアソ連を知る事典』、平凡社、1989年、520頁。

*13  『北村透谷選集』、勝本清一郎校訂、岩波文庫、212頁。

*14  色川大吉、『明治精神史』(上)、講談社学術文庫、175頁。

*15  司馬遼太郎、『本郷界隈』(『街道をゆく』第巻)、朝日文芸文庫、267~271頁。

*16 司馬遼太郎の夏目漱石観については、日本ペンクラブ電子文藝館に寄稿した「司馬遼太郎の夏目漱石観   ―比較の重要性の認識をめぐって―」を参照。

*17  立松和平、「足尾から『坑夫』を幻視する」、『夏目漱石:青春の旅』所収。

*18  司馬遼太郎の近代化観の変化については、高橋「『文明の衝突』と『他者』の認識――『坂の上の雲』における方法の変遷」(『異文化交流』創刊号、31~58頁、参照)。この考察は「司馬遼太郎における文明観の変遷と沖縄――周辺文明論の視点から」(『文明研究』第20号、2001年)へと受け継がれ、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)の第2章と第3章として収録されている。

*19  勝田吉太郎、『神なき時代の預言者――ドストエフスキーと現代』、日本教文社、昭和59年、44~6頁。

*20  松本健一、前掲書、198頁。

*21 拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、125~126ページ、および注に挙げた文献を参照。

*22  『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、53頁。

*23  引用は、前田哲男、『戦争と平和――戦争放棄と常備軍廃止への道』、ほるぷ出版、156頁による。

*24  神川正彦、「比較文明学という学的パラダイムの構築のために」(神川正彦、川窪啓資編、前掲書『講座比較文明』第1巻、6~9頁、180~181頁)。

 (『東海大学外国語教育センター紀要』第21輯、2000年)

 

追記:再掲に際しては、人名の表記を現在のものに統一した他、文体や注の記述なども改訂した。

ブルガリアのオストロフスキー劇

ブルガリアの地図オストロフスキーの像

(ブルガリアの地図、図版は「ウィキペディア」より)、(オストロフスキーの記念像、Материал из Википедии )

はじめに

最近、筆者はロシアの劇作家オストロフスキーに関心を持って調べているが、その中でブルガリアにおけるオストロフスキー劇の受容について述べたシマチョーワ氏の論文と出会い、彼の劇がブルガリアの演劇の確立と発展にかなり深く関わっていることが判った1)。 たとえば後に詳しく触れるが、ブルガリアのガリバルディとも称される独立運動の闘士レフスキ(Васил Левски,1837~1873)は1871年にオストロフスキーの歴史劇『コジマ・ザハーリチ・ミーニン』の主人公ミーニンの台詞を借りて独立への思いを訴えかけているのである。

また、ブルガリアのチェーホフ研究者С・カラコストフ氏が「ツルゲーネフの劇作法やその新しい性質は、我が国の演劇ではあまりよく認識されなかった。しかし、オストロフスキーの戯曲はとてもよく知られており、それらは70年代末から80年代に、我が国においてもチェーホフ劇が現れるのを準備した」2)と述べているように、ロシアだけでなくブルガリアにおいてもオストロフスキー劇は、チェーホフ劇への道をひらいたのである。

ロシアの劇作家オストロフスキー(А・Н・Островский,1823~1886年)は、その生涯に50本に近い創作劇と若い劇作家との多くの共作を書いた他、シェークスピアやセルバンテスなどの劇の翻訳にも力を注ぎ、さらには「ロシア劇作家・作曲家協会」の設立にも指導力を発揮して、ロシア国民劇の確立に多大な貢献をした3)。

だが、R・ヒングリーが「ロシア以外ではあまり彼については知られていない――知る価値は十分あるのに」とオストロフスキーについて書いている4)。この劇作家のことは日本でもあまり知られていないのである5)。以下、この稿ではシマチョーワ氏の論文に依りながら、ブルガリアの社会情勢やオストロフスキー劇の内容についても触れることで、ブルガリア演劇の確立にオストロフスキー劇がどのように関わったのかを明らかにしてみたい。

第一章ではまず、ブルガリアの政治的状況の変化とそれに伴う演劇の発生をロシア・ブルガリアの関係にも注意を払いながら概観し、第二章では劇団「涙と笑い」が果たした役割をオストロフスキーの劇を中心に紹介する。そして、第三章では「自由劇場」や「国民劇場」で演じられたオストロフスキー劇に光をあてながら、第一次大戦までのブルガリア演劇の発展を調べてみたい。

 

第一章  ブルガリアの独立運動とオストロフスキー劇

ブルガリア演劇の発展は永年にわたるオスマン・トルコの支配によって阻止されてきた。トルコはブルガリア人に改宗を強制することはせず、ギリシャの総主教にその権限を残したが、ギリシャの総主教はブルガリア語の公用を禁じて学校を閉鎖し、各図書館を焼き払うように命じたのだった。こうして数世紀を経ると多くのブルガリア人はかっての自国の歴史すらも知らないような事態が生まれた。それゆえ、ブルガリアの独立運動には単にトルコからの政治的な独立ばかりでなく、それに先んじて宗教的にはギリシャの総主教からの独立と、自国語で教える学校の創立が急務だったのである。以下、ブルガリア学校で対話劇が演じられ、重要な意味を果たすに至る歴史を簡単に振り返っておこう 6) 。

1762年に修道僧パイーシイ(Паисий Хилендарски,1722-1773)は『スラヴ・ブルガリア史』を書いて東ローマ帝国をも脅かすほどの力を持っていた第一次・第二次ブルガリア王国の栄光について語るとともに、「自分の民族について知ろうともせず、他国の文化や外国語に興味を持ち、自国語について配慮もせず、読むための努力もせずに、ギリシャ語で話し、自分がブルガリア人であると呼ばれることを恥ずかしく思っている」ブルガリア人がいることを激しく批判して、ブルガリア人としての自覚をうながした。彼の書は独立運動に灯をともしたのである。そして、1765年にパイシイと出会った修道僧ソフロニ(Софрони Врачански,1739~1813)は彼の著作を写本して彼の事業を継続し、それを量的に広めただけでなく質的にも深めた。

ミュシャ、ボヘミア大ミュシャ、ブルガリア

このようなパイシイやソフロニの理念は、教育者ペタル・ベロン(Петр Берон,1800-1871)によって受け継がれる。彼は1824年に最初の「ブルガリア人学校のための教科書」を書きあらわす。彼は自著の前書きで「諸外国に初めて子供たちが自国語で書かれた本を読んでいるのを見た時、私は初めて…中略…我々の子供たちがいかに無益な苦しみを被っているかを理解した」と書き、ブルガリア学校の必要性を説いた。

彼は広い知識をもつ学者で、体罰の禁止、上級生による下級生の教育、授業に遊びを取り入れることなど多くの先進的な理念を持ち、その初等読本は手軽で合理的に組織され、百科事典的な内容を持つ教科書であった。それゆえ、この一冊の教科書を用いるだけで、生徒はアルファベットや文法の知識とともに、歴史、物理、地理、自然科学、算数なども学べ、そして面白く教訓的な読みものや動物の絵も入っていたのである。この教科書は子供だけでなく、大人たちにも軽い読みものとして人気があり、40年から60年にかけて五版を重ねた。またこの教科書はその実践的な応用すなわち、ブルガリア学校の創設をも準備し、出版から11年後に最初の世俗の学校が創立される。

ところで、1806~1812年に亙る露土戦争は修道僧ソフロニに「トルコの野蛮な迫害から自分たちを救ってくれるキリスト教徒の農民たちの軍隊」であるロシアの軍隊に大きな期待を寄せさせたが、確かにこの戦争は多くのブルガリア人に同じ宗教のロシアに強い親近感を抱かさせ、これ以降ベッサラビアや南ロシアへの移住が増えた 7) 。

たとえば、後に名著『古代および現代ブルガリア人のロシア人にたいする政治的、民族学的歴史的、宗教的関係』(1829)を書くことになるユリイ・ヴェネリン(Юрий Венелин,1802~39)はリボフ市の大学で学問にたずさわり、1823年にキシニョフに滞在した期間に多くのブルガリア人移民と知り合い彼らの言語文化を知る機会を得たのである。ヴェネリンのこの本は主にブルガリアが中世ロシアに対してどのような影響をおよぼしたかを研究したものであり、「ブルガリアをスラブ古代の『古典的な土地』として考える熱狂的な親スラブ感情によって書かれていた」。

この本や著者との交際はオデッサの富裕なブルガリア人商人ヴァシル・アプリロフ(Васил Априлов,1789~1847)に決定的な影響を与えた。商人の町ガブロヴォに生まれた彼は、モスクワで教育を受けギリシア人のサークルで活動していたが、これ以降ブルガリアの民族文化と教育にたずさわるようになる。そして1835年には彼の胆入りでガブロヴォに初めての世俗学校が創立され、それはブルガリア学校の将来のモデルとなったのである。そして、1840年代に入るとブルガリアの学校では学校の教師たちが作った演劇的対話が、生徒たちによってブルガリア語で演じられ始めたが、それは独立の気運が高まってくるのと時期を同じくしてもいたのである。

1850年代に入ると社会意識の発展がブルガリアの文化生活にも一層反映され、民族の自治の理念が広がった。ロシアがトルコなどと戦ったクリミア戦争(1853~1856)はロシアの敗北にもかかわらず、バルカン半島のスラヴ人たちにロシアに対する期待を膨らませた。 クリミア戦争の直前にはラコフスキ(Георги Раковски)の指導の元に蜂起の準備が行われ、ロシア軍と共に行動する「秘密組織」が創設され、戦争中には約2000人のブルガリア人の義勇軍が参加した。1856年に戦争が終わるとサルタンの命令で全ての国民に平等の権利と信仰の自由が約束された。1860年にはブルガリア人の聖職者たちが公式にギリシャの総主教を否定し、1870年にはついにトルコ政府がブルガリア教会の独立を承認することになるのである。

又、ベネリとアプリロフの活動の結果、ブルガリア学校の教師たちの視線は強くスラヴの諸国や殊にロシアに注がれた。ヨーロッパ諸国の最新の学校教育の体験を踏まえて、ブルガリアの教育者たちは次々と設備のととのった中等学校や高等学校にあたる学校を設立していった。それらの学校ではロシアで学んだ多くの教師が働いており、その中にはオデッサで学び、後に『ブルガリア語辞典』(全6巻)を編集したナイデン・ゲロフ(Найден Геров,1823~1900)もいた。

よく知られているように、ツルゲーネフは1860年にクリミア戦争前のモスクワ大学を舞台に、自らの命をも賭けてトルコからの独立を願うブルガリアの留学生インサーロフと知性と美貌に恵まれた乙女エレーナの激しい恋を描いた『その前夜』を発表した8)。このようなブルガリア人学生のロシアへの派遣に際しては、1854年にオデッサにおかれたブルガリア主任司祭の職と1858年にモスクワに設立されたスラヴ委員会の援助が少なからぬ役割を演じた。以下、将来のブルガリアの文化と教育をになうようになる有能なブルガリア人留学生の名を列記しておこう。

マリン・ドリノフ(Малин Дринов)、歴史学者、ルーマニアのブライラに1869年に設立されたブルガリア文芸協会の会長。

コンスタンチン・ミラディノフ(Константин Миладинов,1830~1862)、1861年に兄ディミタル(Димитр Миладинов,1810~1862)と共にザグレブで『ブルガリア民謡集』を出版。

ヴァシル・ドルメフ(Васил Друмев,1840~1901)、戯曲『アッセンの殺害者、イワンコ』の作者。

リュベン・カラヴェロフ(Любен Каравелов,1834~1879)、1861年にモスクワで『ブルガリア人の民俗記録』を出版。

フリスト・ボテフ(Христо Ботев,1848~1876)、詩人、革命家 などである。

ブルガリア国民学校の教師たちは各地の社会活動の中心的役割を占め、学校だけでなく社会においても教師として深い尊敬を払われた。多くの学校には「チターリシタ(読書室)」と呼ばれる大衆教育活動のセンターが設けられ、そこでは図書館やアマチュア演劇集団が創設され、また文盲者のための日曜学校や展覧会が開かれ、集会や講義も行われたのである。それゆえ、ブルガリア人の教員の中から詩人、作家、劇作家、劇の組織者が生まれたのも偶然ではなかったのである。

こうして、50年代末から60年代始めにかけてブルガリア演劇が形成されていったが、それは学校を基盤にした学校演劇やアマチュア演劇と深く結びついていたのである。劇の上演はしばしばその組織者と反対者の間に鋭い対立を生みだし、上演禁止や劇の参加者の逮捕といった事態も起きたのだった。

ブルガリアにおける最初の翻訳劇の上演はシューメンとロチで教師C・ドブロプロドニ(Савва Доброплодни,1820~1894)とK・ピシュルカ(Кръстьо Пишурка,1823~1875)のもとでアマチュア劇団によって実現された。ブルガリア演劇の父とも呼ばれるドブリ・ヴォイニコフ(Добри Войников,1831~1878)は始め、シューメンで教師として働き、演劇活動に携わったのち、1866年に国外のブルガリア人の文化的中心地の一つルーマニアの都市ブライラでブルガリアの移民たちからなる最初の常設のアマチュア劇団を創設し、翻訳劇やオリジナル劇を上演し大成功を収めた。彼はまた、その著『文学入門』の中でプーシキンなどとともにオストロフスキーについても言及している9) 。

ブルガリアとオストロフスキー劇の出会いは、その後のブルガリア史を変えるほどのものであった。1971年3月10日のブルガリア「中央委員会」の回想によれば、委員会の指導者であったレフスキはオストロフスキーによって書かれた歴史劇『コジマ・ザハーリチ・ミーニン』(Козьма Захарьич Минин-Сухорук) の主人公ミーニンの次のような言葉で仲間に呼び掛けたのである10)。

「兄弟よ、聖なる祖国を助けよう

我々の心は石と化したのか

我らはみな、同じ母なる祖国の子供ではないのか」

この時、ブルガリアはようやく教会の独立を1870年にトルコから勝ち取っていたとはいえ、まだ完全な独立とはほど遠く、カラヴェーロフやレフスキらの革命家たちは、一斉蜂起を実現するために「委員会」を設立し、ことにブルガリアのガリバルディとも称されたレフスキは、命の危険もかえりみずブルガリアを旅して「委員会」を各地に組織していったのであった。

ミーニンは17世紀初頭のニジニ・ノヴゴロドの商人であり、彼はポーランドに占領されたモスクワを解放するために義勇軍を組織し、ポジャルスキイ公を指揮者としてポーランド軍と戦い、モスクワを解放したのだった。五幕物の歴史劇『コジマ・ザハーリチ・ミーニン』に対する評価はロシアではかならずも高くはなかったが、ツルゲーネフはドストエフスキーへの1862年3月2日の手紙で、「韻文はすばらしく、言葉は美しい」と書いていた11)。その演劇的な言葉は、遠いブルガリアでいかなる俳優よりもその役にふさわしいレフスキの口を通して語られたのである。

レフスキは解放を前に1873年に殺されるが、彼の望みは1876年のボテフによる四月蜂起、そして1877年の露土戦争への義勇軍としての参加へと受けつがれて、ついに1878年のサン・ステファノ条約でトルコ主権下の自治国を勝ち取るのである。

だが、1878年にサン・ステファノ条約で自治国を勝ち取ったかに見えたブルガリアは、その直後のベルリン条約でソフィアを首都とするブルガリア公国とプロヴディフを首都とする東ルメリヤ、そしてオスマン帝国に残されたマケドニアの三つに分割され、問題を後に残した。

1880年代になるとまだアマチュア劇の性格を有していたブルガリアの劇は次第に半ば職業的な劇の性格を持ちはじめてきた。

当時東ルメリヤの首都であったプロヴディフには、サプーノフ、ポジャーロフ、ポポフ、などが劇団員となって働き始めた「ルメリヤ劇団」が現れたが、この劇団の活動はアマチュア劇団の多くが半職業劇団へと成熟していく過程をよく示している。この劇団にはまだ職業俳優がいなかった。ブカレストの音楽院で歌と朗読のクラスを卒業し、ルーマニヤの劇場で演じたことのあるサプーノフ(Константин Сапунов,1844~1916)以外は、職業劇団の舞台に立ったこもなかったのである。それゆえこの当時の批評には「舞台に出る時はより自然で一層生き生きとした態度でなければならない。自分の役のせりふをそれに伴った身振りをし、四方を見回すことは妨げにならず、じっと一箇所に留まってはいけない」といった注意までたびたび載っていた。この劇団の主なレパートリーはブルガリアと西欧の戯曲であり、ロシアの戯曲からはツルゲーネフの『貴族団長宅の朝食』が上演されている。こうしたレパートリイは自分たちの劇団の水準を同時代の西欧の文化の水準にまで近づけようとする努力の現れと見ることができるだろう。

なお、この「ルメリヤ劇団」は1883年にフランスの劇作家デ・レリの戯曲『夫たちの隷属』によってその活動を始めたが、研究者のデルジャーヴィンはサプーノフが依ったのはオストロフスキーが翻訳かつ改作したロシア語版であると想定している 12)。すなわち、この劇は1872年にオストロフスキーの著作集に掲載されているのである。なお、オストロフスキーの改作では、登場人物や土地の名前がすべてロシア風に直されている 13)。オストロフスキーはさらに原作にはいない人物を出していが、それは註によれば恐らく役者の要求によって登場人物を一人増やしたものであろうと想定し、その登場人物は、劇の骨格を殆ど変えてはいないし、翻訳は優れたものであると記している 14)。

ところで、オストロフスキーが1886年に亡くなると、この劇作家の死はブルガリアの社会でも大きく取り上げられ、この当時の多くの論文はこの劇作家の作品の意味を普遍化し、評価を与えようと試みていた。ブルガリアにおいてオストロフスキーの作品が本格的に取り上げられるようになるのは、間もないことのように見えた。だが、ブルガリアとロシアの政治的な関係の複雑化は、オストロフスキーの劇がブルガリアの舞台で上演される時期をさらに遅らせることになる。

すなわち、ベルリン条約で意図を挫かれたロシア政府は、その後ブルガリア公国のみを自国の影響下に引き付けて置こうとしたが、それは公国のロシア化を計るものとの疑いを招き、東ルメリヤとオスマン帝国に残されたマケドニアの解放をも望むブルガリア人の激しい反発を招いた。1885年に東ルメリヤがブルガリアに合併されると、ロシア政府はこの統一に反対してブルガリア軍に残っていた将校を引き上げ、さらにはブルガリアがセルビアとの戦いに独自で勝つと親露派の将校や僧侶を利用して1886年八月にクーデターを遂行させた。だが、このクーデターは一週間の内に逆転し、スタンボロフ(Стефан Стамболов,1854~1895)を首班とする新しい反露的な政権(~1894年)が樹立されたのである。

スタンボロフが採った政策について詳しく見る余裕はないが、ここでは二つの見方を並記しておく。「ブルガリアのナショナリズム」の筆者マリン・V・ブンデフ氏はスタンボロフが民族経済の発展を促進させ、1878年に義務教育制を導入し、1889年の高等教育機関の設置や1904年のソフィア大学の設立など、ブルガリア民族の教育発展の基礎を作ったと述べている 15)。

それに対して、シマチェーワ氏は「スタンボロフが政権に就いていたこの期間、ブルガリアは陰欝な時期を苦しんだが、90年代の始めに反対勢力の新しい潮流が活発化した」と書き、高級官僚の収賄を厳しく批判していたオストロフスキーの戯曲『収入の多い地位』が、1893年に初演されて大成功を収めたのはスタンボロフ体制に対する批判として受け取られたと記している 16)。

いずれにせよ、『収入の多い地位』が初演された1893年がスタンボロフ失脚の前年であり、1894年からは再びロシアとの関係が正常化されたことを思い起こせば、この劇の上演も深くブルガリアの情勢と関わっていたことはたしかである。そして、官僚における収賄の問題を扱った『収入の多い地位』がそれだけの反響を呼んだという事実は、レフスキが民族の解放を呼び掛けた『コジマ・ザハーリチ・ミーニン=スホルーク』の抜粋を朗読してから20年余りで達成したブルガリアの政治的・経済的な発展をも反映していたと言えるだろう。

 第二章  オストロフスキー劇と劇団「涙と笑い」

ブルガリアの国民演劇の確立に重要な役割を果たしたのは、1892年に首都のソフィアに創立された劇団「涙と笑い」(1892~1904)である17)。ゴーゴリの『結婚』によって出発したこの劇団は、ゴーゴリの『検察官』、スホヴォ・コヴイリンの『クレチンスキーの結婚』、チェーホフの『熊』等を上演し、その他シェークスピアの戯曲やモリエール、シラー等の劇も上演しているが、殊にオストロフスキーの戯曲を多く上演した。オストロフスキーの名前はこの劇団「涙と笑い」と密接に結び着いていると言えるだろう。

さて、「涙と笑い」が最初に上演したオストロフスキーの創作劇は、『収入の多い地位』である。この五幕の喜劇は1857年に「ロシア談話」に発表されたが、その内容のためにロシアでは長い間上演を許可されなかった。しかし1863年に上演されるとモスクワやペテルブルグで大変評判になった。ブルガリアではこの劇は1893年10月17日に『脂っぽい小骨』という題名で初演され、演出家のR・カネリ(Радул Канели, 1868~1913)が主人公ジャードフを演じた。

ジャードフは理想家肌の若者で、オストロフスキーは彼の理想と苦悩を描き出すことで、当時のロシアの抱える問題点を鋭く衝いたのだった。むろん彼は観念的な操作のみで描くことをせず、ジャードフに純真で可愛いが、他人に影響されやすい妻のポリーナとその姉で打算的なユーリヤを、さらにそのユーリヤの夫に彼の同僚でお世辞がうまく世渡りが上手なベログーボフとその上司のユーソフを配することで登場人物たちの行動を比較し、問題点を浮彫りにしている。殊にジャードフと彼の伯父で賄賂を受け取ることを当然と見なす高級官僚ヴイシネーフスキイの対立と論争はこの劇の主題を明確にしている。

この劇はブルガリアでも大成功を収めたが当時の劇評を読むと、題名だけでなく内容の点でもかなりの変更があったことが判る。「疑いもなく、カネリの演ずるジャードフは何よりもまず、完全な強い性格である。ジャードフが自分も皆と同じようにあるべきか否かをためらう場面をカネリが全部削ったのは偶然ではない。カネリの演ずるジャードフはどのような試練がその生活に待ち受けていようと自分の信念を曲げはしないのである。彼には自分を取り巻いているユーソフとかベログーボフといった輩やあらゆる下劣さを無関心に見つめることはその信念からもできないのである」18)。

すなわち、オストロフスキーの劇ではジャードフは第三幕に入ると既に自分の苦悩を友人に打ち明け、その後も迷い続け、第五幕ではついに折れて「収入の多い地位」を求めて伯父の元に謝りに行くのだが、ブルガリアの舞台ではそういった迷いは一掃されていたのである。ここにも新興ブルガリアの一途な性格が現れていると見るのは行き過ぎだろうか。

ペテルブルグの雑誌「演劇と芸術」の特派員は「戯曲はこれまでブルガリアの演劇にはなかったセンセーションを巻き起こし、何回もの大入りを出したのだ。この原因はまず、これまでブルガリアの舞台で幅をきかせていた喜劇や悲劇の大げさなモノローグに変わる、オストロフスキーの生き生きとした活気のある言葉の魅力だろう」と伝えている19)。こうして1893年の劇『収入の多い地位』の上演はブルガリアの社会的・文化的な出来事となった。多くのアマチュア劇団や半職業劇団はこの戯曲を自分たちのレパートリーに取り入れた。ソフィアに続いてルーセ、ガブロヴォ、ラーズグラト、ローム、カルノバートやその他の都市でも上演され、ジャードフのモノローグはブルガリアの若者たちの合言葉となったのである。

『収入の多い地位』で成功を収めた劇団「涙と笑い」はそれ以降毎年のように、そして多い年には1年に2本もオストロフスキーの戯曲を上演することになり、10年間にオストロフスキーの10の戯曲がブルガリアの舞台で上演されることになる。以下、戯曲の題名とブルガリアでの初演の年度を書き出してみよう。

1893年  『収入の多い地位』(Доходное место)

1894年  『貧しさは罪にあらず』(Бедность не порок)

『持参金のない娘』(Бесприданница)

1895年  『あぶく銭』(Бешеные деньги)

『雷雨』(Гроза)

1899年  『ワシリーサ・メレーンチエワ』(Василиса Мелентьева)

1900年  『幸せな日』(Счастливый день)

『求めよ、さらば与えられん――バリザミーノフの結婚』(За чем пойдёшь,то и найдёшь――Женитьба Бальзаминова)

1901年  『狼と羊』(Волки и овцы)

1902年  『罪なき罪人』(Без вины виноватые)

 

ところで、1905年以降は1909年までしばらく間があいており、しかも上演作品の傾向が違っているが、これは1905年を境に主な演出家が異なっているためだろう。前半の『あぶく銭』以外の四本はすべてカネリが演出し、ことに『持参金のない娘』は彼自身で翻訳した。R・カネリは演劇の教育を受けた最初のブルガリア人俳優であり、彼はレニングラードで演劇コースを終えた後、1893年に劇団「涙と笑い」に入団した。彼が舞台人としてのデビューしたジャードフの役については既に一部劇評を引用したが、それはもっぱら演出家として彼が『収入の多い地位』をどのように捉えたかを物語るものである。俳優としての彼にかかわる別の感想も引用しておこう。ブルガリア人民共和国の人民芸術家タチョ・タネフはこう書いている。「カネリの演ずるジャードフが声をあげて泣き涙ながらに生活における不正への怒りに燃えた時、また彼が高級官僚は主に泥棒とペテン師たちからなり立っていると激しく糾弾した時、私の若い記憶に強く残った。それゆえ、今でも当時の観客が一様に拍手かっさいしたように彼に拍手を送りたいという望みが生じるのである」 20)。以下、簡単に『あぶく銭』をも含めてこれらの戯曲をみておきたい。カネリの演出の傾向がある程度はっきりする筈である。

『収入の多い地位』に続いて上演された『貧しさは罪にあらず』(1854年、括弧内は戯曲が発表された年。以下同じ))では、モスクワの商人の家庭を舞台にやはり貧しいが真面目な手代と商人の娘リュボーフィの愛を縦糸に描かれている。しかし、リュボーフィの父親の横暴さのために彼女は無理矢理、大金持ちの老人に嫁がされそうになる。しかし、そこに伯父のリュービムがあらわれ、老人の過去を暴露して彼らの愛を救うのである。ことに彼の「リュビーム・トルツォーフは酔っぱらいにはちがいない。だが、てめえらよりはまっとうな人間だ。さあ道を開けてくれ、リュビーム・トルツォーフ様のお通りだ」というたんかは観客をわかせた 21)。シマチョーワはこの劇について何もふれてないがその後もオストロフスキーの劇が続いたのを見ると、ブルガリアの舞台でもやはり好評を博したものと思われる。

第三番目の『持参金のない娘』(1869年)は一転してオストロフスキー後期の作品であり、第五番目の『雷雨』(1860年)と同時に女主人公の死で終る。ここでオストロフスキーは持参金がないゆえに憧れの男性と結婚できない女性の苦悩をリアルに描き出し、他方でやはり貧しさのゆえに真面目ではありながら様々のコンプレックスから抜け切れぬ男カランドゥイシェフの悲劇を描いている。殊にカランドゥイシェフの形象は多くの点でドストエフスキーの登場人物と共通するものがあり、ロシアの舞台では大変な話題となった。

第四の『あぶく銭』は1870年に発表されたものであるが、ここには既に後年の『持参金のない娘』を予想させるものがいくつかある。たとえば、女主人公のリリヤもラリーサと同じように美しくはあるが、持参金がなく、自分の美貌でなんとか良い玉のこしに乗りたいと考えている。又、彼女の母親もラリーサの母親のように、ただ娘に安穏な生活をさせようと願うだけの母親なのある。それゆえ、父からの仕送りを受け取ることができなくなったと知ると、リリヤは「美貌は価値があるのよ。心配しなくてもいいわ。美男子は少ないけど、お金持ちのばかなら沢山いるわ」 22)といって、地方出で、風貌はさえないが金鉱をもっているといわれるサーヴァの求婚に同意するのである。こうして、『持参金のない娘』と同様にこの戯曲でも彼らの結婚は始めから破滅を予感させるのである。そして、事実、夫サーヴァが彼女を甘やかさず、質素な生活を営むと「私は蝶と同じで、金粉がないと生きられないのよ…最大の罪は貧しさだわ。これまで私少しはコケティッシュに振る舞ってきたけど、どれだけ恥知らずに行動ができるか自分を試してみるわ」 と母に宣言して大金持ちと思われる二人の男性に愛想をふりまき、愛人になることもいとわないと告げるのだ23)。

だが、この劇ではオストロフスキーはどんでん返しを用意している。すなわち、一見華やかに暮らしていた二人の紳士が共に借金で生活していたこと、それに反して質素な生活を送っていたサーヴァが大儲けをしたことが第五幕で明らかになるのだ。こうして劇は夫をあらためて見直したリリヤが、彼の言葉にしたがって彼の村で義母につかえながら生活を学ぼうと決意するところで幕になる。

チェーホフは後に『桜の園』において貴族の夫人と元農奴だった商人とを対置し、彼女の領地が彼に買われるという筋を用意して、貴族の時代から商人の時代へと移った時代の変化を鮮明に描きだしたが、オストロフスキーは既にこの劇においてその徴候を見事にとらえていたと言えるだろう。借金生活者の一人テリャーテフの「今では金(かね)もより賢くなり、仕事の出来る人間の所に全部行くんだ。以前は金はもっと愚かだったがね。我々の所にあるのは、あぶく銭ばかりだ。汗水たらして得た金は賢く、そいつらはおとなしくおさまっているが、我々がそいつらを招いても来はしない」というセリフはこの戯曲の主題をよく物語っていると言えるだろう24)。

同じ年に上演された『雷雨』はオストロフスキーの代表作である。この作品でオストロフスキーはボルガ川沿岸の架空の町カリーノフを舞台に、横暴で無知な上に迷信深いロシアの小都市の商人たちの実態をあからさまに描き出し、美しい風景や雷雨という激しい自然現象と共に女主人公カテリーナの悲劇を生き生きと伝えている。

すなわち、嫁ぐまで「自由な小鳥のような日を送っていた」カテリーナの姑カバノーワは、うわべは信心深い女性を装ってはいるが、ことあるごとにねちねちと彼女をいびる。だが、夫のチーホンは母に頭が上がらず、親の目を盗んではうさばらしに酒を飲みに行くのだった。こうして、冒頭から劇はカテリーナの心理的な苦悩を描き出して激しい緊張の中にある。二週間の商用での旅を新たに言いつけられたチーホンは、旅行を止めるか、せめて一緒に連れていって下さいと懇願するカテリーナの頼みを振り切って、足枷のない自由な日々を夢見て命の洗濯とばかり、いさんで出かけていってしまう。

そして、彼女の恐れは事実になる。彼女の気持ちを理解しない夫がいなくなった空虚なカテリーナの心に、モスクワで立派な教育を受けながら両親の突然の死によって横暴な伯父にこき使われて働いている同じ境遇の若者ボリースに対する思いがつのる。一方、義理の妹ワルワーラは、母親に隠れて夜毎に恋人クドリャーシュとのあいびきに出ていたが、カテリーナがひそかにボリースに思いを寄せていることを知ると彼女を焚き付け木戸の鍵を渡すのだった。カテリーナは激しく迷うが結局ボリースと会ってしまい、その後も密会を重ねる。しかし、夫が帰宅すると彼女は罪の意識に悩まされ、雷雨の日にすべてを告白し、数日後に岸からボルガ川に身を投げてしまうのである。

この戯曲が1860年に発表されると大変な評判を呼んだ。たとえば、ドブロリューボフは「闇の王国の一筋の光」を書いて、主人公カテリーナの形象に注目し、オストロフスキーがこの作品で横暴で無知な親たちに対する彼女の反抗を通して未来の光を描いたと高く評価した。この劇がブルガリアではどのような評価を受けたのかを知ることのできる資料は手元にないが、演劇評論家のカラコストフはキルコフ(Васил Кирков,1870~1931)が演じたボリースには「柔軟さ、やさしさ、リリシズム」があったと指摘するとともに、「同時にキルコフは、貴族の息子であり、余計者でもあるボリースが本質的には、はっきりした自分の意志を持っていないことも明らかにした」と述べている 25)。

なお、この劇は1902年にも再演されたが、この時キルコフ(ボリース)、キーロフ(クリーギン)、キルチェフ(チーホン)、M・カネリ(ワルワーラ)、サラフォフ(クドリャーシュ)等のブルガリア人俳優に混じって客演したロシアの女優マサロワは1904年の回想録の中で次のように書いている。「ブルガリアのスラヴの友人の中では、外国にいるという感じがしません。私はロシア語で演じ、他の人達はブルガリア語で演じました。それによる困難さは観客にも、俳優たちにもありませんでした。なぜならば、ブルガリア人はほとんどみんながロシア語知っているからです。あらゆるスラヴの言葉の中でブルガリア語は我々の言葉に一番似ています」。 26)

これら五本のレパートリーとその内容に言及したシマチョーワは、この劇団の最初の指導者ナルブロフ27)、と「カネリの貢献はレアリスチックな芸術の原則の確立を意図的に追求したことである」という言葉を裏付けているように見える 28)。ころで、後半の1899年以降再び連続してオストロフスキー劇が上演されるが、これはクロアチアの第一級の悲劇俳優であるアダム・マンドローヴィチ(Адам Мандрович,1839~1912)が監督となった事と、ロシアの演劇学校でレンスキー(А.П.Ленскии,1847~1908)やダヴィドフ(В.Н.Давыдов,1849~1925)の元で学んだブルガリア人の生徒たちが祖国に戻ったことと深く関係している。

たとえば、第六番目の戯曲『ワシリーサ・メレーンチエワ』(1868年)はレンスキーの教え子であるブデフスカ(Адриана Будевска,1878~1955)やキーロフ(Гено Киров,1866~1944)によって演じられ、キーロフはこの戯曲の翻訳もしている。

レンスキーはシェークスピア劇のすぐれた俳優としての定評があるが、オストロフスキー劇にもしばしば出演し、彼が教えていたモスクワ演劇学校でも、18年間、試験の劇のレパートリーは常にオストロフスキーの戯曲であり、オストロフスキーの戯曲の一部や全体が34編演じられた。オストロフスキーもフェドートフの劇『狼』を見た折りに「重苦しい、不愉快な戯曲だが演技はよかった。レンスキーのメーキャップは上出来で、自分の役もすべて立派にこなしていた」と1886年の日記に記し29)、また別の箇所では「サドフスキー、レンスキー、ルィバコフその他の若い俳優たちは私を父親のように慕ってくれています」と書いている30)。

ところで、キーロフ等が選んだ『ワシリーサ・メレーンチエワ』はオストロフスキーの歴史劇の一つで、イワン雷帝の皇后アンナの一介の女官にすぎなかったワシリーサが、自分を恋する若者コルィチェフを使って皇后アンナを陥れて修道院に追いやり、自ら妃になるまでの野望とその結末を描いている。オストロフスキーの意気込みに反して不人気だった一連の歴史劇とは異なり、この劇ではワシリーサを始め登場人物の心理と性格がくっきりと描き出され、その劇的な筋と共に評判を呼んだ。演劇学校のブルガリア人学生たちは、フェドートワが主役を演じたマールイ劇場の劇を見た筈である。

ブルガリアではキーロフがイワン雷帝を、ブデフスカがワシリーサを演じた他、マリュータ・スクラートフをやはりレンスキーの愛弟子ガンチェフが、彼女の恋人コルィチェフをV・キルコフが演じている。こうしてロシアの演劇学校で学んだブルガリア人俳優が多く出演したこの劇はそれまでのブルガリアの演技方法を多くの点で打ち破っており劇団に新しい時代が来たことを印象付けた。新聞の劇評は「劇団の成功は予想をはるかに越えるほどであった。実際オストロフスキーの劇そのものは、取り立てていうべき程のものではないが、俳優たちのすぐれた演技こそが多くの観客の関心を生み、彼らの大成功を呼んだという事を証明している」と述べている。

『ワシリーサ・メレーンチエワ』の上演から4ケ月後に、やはりキーロフの翻訳になる『幸せな日』の初演が行われた。この戯曲はオストロフスキーが若い劇作家ソロヴィヨーフ(Н.Я.Соловьев,1845~1898)と共に書き上げ、1877年に発表した三幕ものの喜劇である。

ゴーゴリは戯曲『検察官』の中で、おしのびで検察官が現われるということを知った地方都市のお偉方の右往左往を見事に描き出したが、この戯曲でも、日頃賄賂を受け取ったり、かってに課税したりしていた郵便局長が部下に訴えられ監査を受けるに至る騒ぎが主題になっている。だが、この作品で主要な役を演じるのは局長の対照的な二人の娘、リーポチカとナースチャである。やり手の母親は家族を救ってくれる一切の望みを、美しく、魅惑的で悪知恵も働くナースチャにかける。そして、事実彼女は持ち前の愛敬と機知で、まず出入簿を調べている若い官吏の気をそそり、また監査官にも「あなたの個人秘書になりたいわ」と取り入って局長を解雇しようと思っていた彼の気をやすやすと変えてしまうのである。一方、母親から「寝ることとピローグを作ることだけしか、才能がない」と言われ 31)、何ら期待を抱かれていないリーポチカは実は創造性のない生活にあきあきしており裁縫師にでもなって働きたいと願い、彼女の恋人の地方医は「私は医学が好きですし、この学問の未来を信じています」と述べて、私達にチェーホフの主人公たちを想起させるのである 32)。

こうして、この劇はナースチャを通して地方官僚の腐敗ぶりを機知に富んだ対話で描き出す一方で、リーポチカとその恋人の医者の形象を通してロシアの可能性をも描き出すことに成功しているのである。

この劇ではナースチャを演じたブデフスカの演技が光った。この役を彼女はレンスキーの指導で準備したのだった。1897年に彼女は「稽古をしていた時、レンスキーは満足し、とても上機嫌でしたが、これはよい徴候です」と手紙で知らせている。だが、この劇自体は評判にはならず、2回演じられただけであった。

同じ年に上演された『求めよ、さらば与えられん――バリザミーノフの結婚』(1863年)は、金持ちの未亡人に見染められることを期待して町中を足を棒にして歩き回っている少し間の抜けた男を主人公にした戯曲の三番目にあたる作品で、雑誌『時代』に掲載された。ドストエフスキーはこの作品について「私の率直で遠慮のない感想をとの御要望ですが、傑作の一語に尽きます」とオストロフスキーへの手紙に書き、この劇の登場人物が皆生彩に富んでいることを取り上げるとともに「主人公が非常に生き生きとして、現実的であり、今ではもう一生全場面が頭から消えることはないと思われる程です」と記している33)。

この劇はА・マンドロヴィチの演出で上演された。彼は単に名悲劇俳優であったばかりでなく、すぐれた教育者でもあり、彼の活動は若い役者たちのレベルを引き上げ、また古い役者たちの芸域を広めたのだった。

この翌年には『狼と羊』(1875年)が上演された。この劇に登場する女地主ムルザヴェツカヤも又、『雷雨』の姑カバノーワと同じように、うわべは信心深い女性のふりをしているが、実際は未亡人クパーヴィナの経営上の無知につけこんで、彼女の夫が莫大な借金を背負っていたような手紙を代言人に偽造させ、なんとか示談にもち込んで、自分の甥を彼女の夫にして、広大な領地をものにしようと企んでいるのだ。

このような企みは、クパーヴィナが秘かに思いを寄せていた夫の若い友人ベルクートフの機知であやうく回避され、彼らはめでたく結婚する。だが、この劇では思慮深くかつ大胆なベルクートフも肯定的な人物とは描かれていない。彼は友人に「いや、僕はもう久しく目をつけていたのだ」と語り、クパーヴィナさんにかい、という問いに対しては「いいや、この領地にだ」と告白し、もちろん彼女にもだがねと付け加えるのである。彼は又、既に彼女の領地に鉄道が敷かれるという決定がなされていることをどこからか聞き込んでおり、又、彼女の領地が美しいだけでなく「ぶどう酒の醸造工場」を建てるにも適している事を見越している。そして彼は結婚の承諾と同時にクパーヴィナの領地の管理権をもゆずり受けてしまうのである。

偽造文書をでっちあげた元管財人のチュグノーフは、「私やあなたがなんで狼です。私どもはにわとりです。鳩です。一粒ずつついばんで決して腹一杯にはなりません。あの連中こそ狼です。あの連中はいっぺんにぐっとのみこんでしまうんです」とぼやく 34)。確かにオストロフスキーがこの劇で描き出したベルクートフは、法律の裏をかいてこそこそともうける小悪党や、古いタイプの暴君型女地主をも堂々と手玉に取ってしまう、新しいタイプの経済人であるといえるだろう。

ブルガリアの上演では、ズラタレヴァが演ずる信心深さを装った暴君的な女地主ムルザヴェツカヤの形象を中心に、彼女の軽薄な甥の役をキーロフが、クパーヴィナの隣人で人の良い地主ルイニャーエフをガーネフが演じた他、ベルクーロフの役をキルチェフが演じている。俳優たちはオストロフスキー劇の本質を理解し、風刺的な舞台を作り上げた。

この劇が上演されると激しい賛否両論が巻き起こった。すなわち、この劇の風刺性が高く評価された反面、この劇に『収入の多い地位』の主人公ジャードフのモノローグのような台詞を期待していた多くの観客を失望させ、肯定的な主人公の欠如が鋭く批判されたのである。それと共に、シマチョーワはこの戯曲に作者のペシミズムを読み取った劇評を紹介しながら、「オストロフスキーの劇作の暴露主義的な傾向は、西欧のメロドラマ的傾向に慣れていた、批評家たちを驚かしたのである」と説明している 35)。

劇団「涙と笑い」が上演した最後のオストロフスキー劇は、А・キルチェフの翻訳した『罪なき罪人』(1884年)である。この劇は1904年にこの劇団が解散した後も、劇団「自由劇場」のレパートリーとして受け継がれることになるので、次章で改めて論じたい。

1903年の次のような劇評は、劇団「涙と笑い」を通してオストロフスキー劇がどのような位置を獲得していたかを如実に物語っている。

「ロシアの劇作家オストロフスキーはブルガリアの演劇や知識人の間でほとんど身内の者となった。ブルガリアでは他のいかなる劇作家も、オストロフスキー程の尊敬を受けてはいない。その理由は多く挙げられるが、その内の一つは決定的なものである。それはオストロフスキーがその戯曲の中で示した筋や作中人物が、我々の現実に非常に近く、その中から汲み取られたように感じられるからである」 36)。

 

第三章  オストロフスキー劇からチェーホフ劇へ

1904年に行われたいくつかの劇団の再編と統一の結果(その中には劇団「涙と笑い」もあった)、ソフィアに国家予算で運営されるブルガリア国民劇場が創立された。だが、主に新しいレパートリーの選択をめぐり、劇場の指導に満足しなかった劇団の有能な俳優サラフォフとキルチェフが劇団を離れ、さらに1905年にはガンチェフ、ストイチェフ、スネジナ、さらにはブデフスカなどの優れた俳優たちが参加してヴァルナに「自由劇場」を組織した。

この劇団はオストロフスキーの戯曲『罪なき罪人』と『森林』を上演したが、この「自由劇場」を何よりも特徴付けるのはチェーホフの劇『ワーニャ伯父さん』(1904)と『かもめ』(1895)を上演したことだろう。チェーホフのヴォードヴィルは既に劇団「涙と笑い」も『熊』(1901)や『結婚申し込み』(1904)といったヴォードヴィルを上演し、また国民劇場も『ワーニャ伯父さん』を取りあげてはいた。しかし「チェーホフの劇作法は国民劇場の舞台でではなく、1905年から1906年にかけて存続した自由劇場の舞台において最も深く習得された」のである 37)。

こうして、ブルガリアにおける劇団「涙と笑い」から「自由劇場」へという過程は、オストロフスキーの家と呼ばれた「マールイ劇場」ややはりオストロフスキーの劇を多く取り上げたアレクサンドリンスキイ劇場からチェーホフ劇の「モスクワ芸術座」へと移行したロシアの流れとほぼ重なるように見える。

この点で興味深いのは、アタナス・キルチェフ(Атанас Кирчев,1879-1912)の存在だろう。彼はヴァルナのアマチュア劇団で演技を始めるが、後にペテルブルグの演劇学校のダヴィドフで学び、またアレクサンドリンスキイ劇場でダヴィドフ、ヴァルラーモヴァ、サーヴィナ等の名優の芸を見る機会を得た。キルチェフのオストロフスキーにたいする敬愛には彼の師ダヴィドフからの影響が見られる。ダヴィドフはオストロフスキー劇のすぐれた俳優の一人であり、その生涯にオストロフスキー劇の80以上の役を演じた。オストロフスキーも彼について「ダヴィドフは非常に才能に恵まれ、芸術を愛し情熱的に仕えている」と高く彼の才能と情熱を評価している 38)。

1907年から翌年にかけて、キルチェフは再びロシアに戻り、今度はモスクワ芸術座で学び、殊にスタニスラフスキイから強い影響を受けた。残念ながら彼は働き盛りの33歳で亡くなったが、その生涯に多くの仕事をなし遂げ、ブルガリアにおけるオストロフスキーからチェーホフへの橋渡しをしたように見える。キルチェフにはオストロフスキーの『罪なき罪人』、『森林』や『温かみのない光』(Светит,да не греет)などの戯曲の翻訳があるが、面白いことにこれらの劇はいずれもどこかの点でチェーホフの劇を予想させるものがある。

たとえば、劇団「涙と笑い」だけでなく「自由劇場」でも上演されたオストロフスキーの劇『罪なき罪人』は、その女主人公に女優がなっており、チェーホフの劇『かもめ』を幾分思い起こさせもするのである。

よく知られているように『かもめ』では大女優の母とその息子で小説家のトリゴーリンの心理的な葛藤が描かれている他、トリゴーリンに恋して一子までもうけるが、彼に捨てられ子供も失ってしまうが、念願の女優になり、地方の劇場をまわりながらも、女優としての使命に燃えて生きていく若い女性ニーナの形象もくっきりと描かれている。同じように、1884年に書かれた『罪なき罪人』でも大女優と息子との心理的な葛藤が劇の重要な位置を占めており、この女主人公クルチーニナも、若い官吏との間に子供までもうけながら、立身出世を望む彼に捨てられ、さらにあずけていた子供も病死したという知らせを受け、心の痛みをいやすために女優になり、内地を回るのである。

だが、『罪なき罪人』では息子が死んだという知らせは、実は彼女との縁を完全に断ち切るために恋人が考え出した策略で、死にかけていた息子は元気を取り戻し子供のない夫婦に預けられていたのだ。こうして劇は、再び故郷に大女優として戻ってきた彼女と、養父にも死に別れ厳しい人生の試練を経て粗野で乱暴だが才能ある俳優に育ってきた息子の出会いを中心に進んでいき、大団円で彼女はその若い俳優が自分の息子であることを知るのである。

全体にチェーホフの劇と比べると幾分センチメンタルな感は否めない。しかし、妻の遺産で町の名士となり市長に立候補しよういう野望を持ち、彼女の存在が邪魔で早く追い出そうとするかつての恋人ムーロフを横に見ながら、息子に「あなたの父親は探すには値しない人よ…中略…あなたは立派な俳優になるわ、名字は誇りを持って私の名字を名乗るの。それは他のどんな名字にもひけをとらないわ」という彼女の最後のモノローグには苦労しながらもようやく自分の道を見つけた女優の自信と誇りが響いている 39)。

そして、このような俳優の賛歌はすでに1871年の名作『森林』(Лес)のなかでも高らかに響いているのである。主人公のネスチャストリーフツェフは貴族の家に生まれながら、両親に早く死なれ、今では旅芸人に身を落としている。自分の育て主の伯母の領地のそばを通りかかった彼は、15年ぶりに会いたいと思い立ち退役軍人と身分を偽り、同僚の役者を従者にしたてて訪れる。

だが、そこで彼が見たのはうわべでは信心深い女性を装いながら、遠い親戚の娘アクシーニヤの婿にと呼びよせた若い軽薄な男に恋をし、アクシーニヤを領地から追い出そうとするが、彼女には持参金を付けてやるのも惜しい打算的な伯母の姿であり、彼女の元で苦しむアクシーニヤの姿だった。絶望したアクシーニヤが湖に入水しようとするのを助けた彼は、せめて千ルーブルの持参金をつけてあげるようにと裕福な伯母に懇願する。しかし冷たく拒絶された彼は自分の権利として譲り受けた有り金全部をアクシーニヤの持参金に譲り、貴族たちを前に「道化師ですって? いいや我々は俳優です。高潔な俳優です。道化師はあなた方です。…中略…助けるときには有り金を全部だしても助けます。でも、あなたたちは…」 という有名なモノローグを述べて、再び徒歩で旅に出るのである40)。

殊に最後の彼のモノローグは男と女の違いはあれ、「わたしはかもめ。いいえ、そうじゃない…中略…私はもう本物の女優なの。……わたしは楽しく、喜び勇んで役を演じて、舞台に出ると酔ったみたいになって、自分はすばらしいと感じるの」という戯曲『かもめ』のニーナのセリフと重なる部分が多いように見える 41)。

なお、この「自由劇場」のレパートリイには、チェーホフやオストロフスキーらの戯曲のほかにはゴーリキーの『どん底』やドストエフスキーの『白痴』の劇化、そして、西欧の作家ではイプセンの『海の夫人』、ハウプトマンの『織工』が入っていた。これらの戯曲はこの集団の傾向をはっきりと物語っているだろう。

「自由劇場」の舞台では上演されなかったが、やはりキルチェフの訳で第一次世界大戦後に「国民劇場」の舞台で演じられた『温かみのない光』についても簡単に見ておきたい。これはオストロフスキーが若い劇作家ソロヴィヨーフと共に1881年に書き上げた戯曲であり、美しく才能がありながら暇を持て余している若い女地主が森林を売り払うために一時的に領地に戻ってき、暇つぶしのために、生真面目な若者を誘って楽しい日々を過すが、その間に初めは彼女に冷たく振る舞っていた青年が次第に夢中になり、それを知った青年の恋人が自殺し、責任を感じた若者も自殺するという暗い内容の戯曲であり、ここには俳優も登場しない。

しかし地主が森林を売るために一時的に領地を訪れるという筋はチェーホフの『桜の園』や『ワーニャ伯父さん』にも共通のものであり、殊に、セレブリャコーフ教授の若い妻エレーナはその美貌でワーニャや医師アーストロフを魅惑して夢中にさせ、アーストロフに「あなたはこの世で、何ひとつする仕事のないひとだ」と批判させながら、同時に「僕はすっかりのぼせあがって、まるひと月というもの何ひとつやらなかった」と言わさしめているのである42)。

シマチョーワ氏の論文によりながら、その後の歩みを簡単に見ておきたい。1906年に「国民劇場」にチェコ人のシュマハ(Йозев Шмаха,1845~1915)が新しい演出家になり「自由劇場」の要求が入れられた。それに伴って「自由劇場」は解散し、俳優たちは国民劇場に戻った。国民劇場の歩みはこれ以降も平坦なものではなく危機や創作能力の低下した時も経験したが、創立された時からこの劇場はずっと国の文化生活の中核を担ったといえるだろう。「国民劇場」は初めから国家予算で運営されたが、1907年には劇場の新館の開場式が荘重に取り行われた。レパートリイの面では「涙と笑い」の舞台にかけられた『狼と羊』が残っていたが、さらに、1907年から翌年にかけて『収入の多い地位』と『森林』が上演された。

キルチェフは、1908年2月16日付けの手紙で劇の成功を師モロゾフ(П.О.Морозов,ペテルブルグ演劇学校の教師)の息子に次のように伝えている。

「今週私達の『国民劇場』の舞台で『森林』と『収入の多い地位』が相次いで上演されたことをとり急ぎお伝えします。しかも両戯曲は未曽有の成功を収めました。大変な大成功でした。『森林』は既に超満員の劇場で演じられ、これからも続演されます。一方、『収入の多い地位』も多くの観客を集め続けています。『森林』ではネスチャストリーフツェフの役を、翻訳者でもある私が演じ、スチャストリーフツェフの役はやはりダヴィドフの弟子のР.ストイツェフが演じました。数日中に第二幕の一場面の写真をお送りします。『収入の多い地位』ではジャードフの役をК・サラフォフが、ユーソフの役をН・ガンチェフが演じています。(二人共レンスキーの教え子です)。この週間を『オストロフスキーの祝典』とすら呼んでもいい位です」。

劇『森林』はロシアの演出家イワノフスキーの演出で上演され、キルチェフとストイチェフの他には女地主ライーサの役をスネージナが、アクシーニヤの役をストイチェフの夫人ストイチェワが、そして彼女の恋人ピョートルの役をキーロフ、さらに彼の頑固な父の役をガンチェフが演じた。

この時演じられた『収入の多い地位』は、この劇団の歴史の中で一時期を画するものとなり、劇評の一つは初日の熱狂を次のように伝えている。「観客は戯曲のすばらしい演技と舞台で彼らの眼前に示された形象に歓喜した。現在の体制が舞台の観客の前にありありと描き出されたことに、観客は全員が一致して満足の気ちを何回も表現したのだった。観客が等しくした感激は、鳴り止まぬ嵐のような拍手となってあらわれ、その場にいあわせたすべての者を感動させた」。この劇は翌年のマケドニアへの客演のレパートリーにも取り入れられた。サラフォフとガンチェフ以外ではストヤノフ夫妻がヴィシーネフスキイ夫妻の役を、ベログーボフをキーロフが演じている。

同じく1908年にはゲオルギー・ゲー(Георгий Ге)のドラマ劇団がブルガリアで公演したが、そのレパートリーの中には『罪なき罪人』も入っていた。この劇はブルガリアの観客の間でも大評判となったが、「演劇と芸術」の特派員ベルベンコは、解放者であるロシア人の劇団がブルガリア人の間で温かく迎えられたことを紹介し、さらに、クルニチナを演じたホルムスカヤは「見事に自分の役を演じて非常な能力を発揮した。…中略…涙が流れ出たが、私達はそれを恥とはしなかった」というブルガリアの劇評を紹介している。この劇はソフィアの他にプロヴディフ、トゥルノヴォ、ヴァルナの各都市でも演じられた。

また、1901年から1912年にかけてブルガリアには、俳優と監督を兼ねたイコノモフによって指導される強力な移動劇団「現代劇場」があった。この劇場のポスターには『収入の多い地位』と『森林』の二つが載っていた。1968年に雑誌『演劇』にはこの劇場の俳優アナスタソフの日記が載ったが、そこにはこの劇場が1911~1912演劇年度に14のレパートリイを持ち、171回の上演をしたが、そのうちの26回が『森林』であったことが記されている。

以上、簡単にではあるが、ブルガリア演劇の発達におけるオストロフスキー劇の役割を一瞥した。シマチョーワ氏はブルガリアにおいてオストロフスキー劇での関心が生まれたのは、劇場の組織への関心からばかりでなく、演技の問題とも当然深くかかわっていると指摘し、オストロフスキー劇の演技者たちは、単にロシアの著名な俳優たちから演技をまなんだのではなく、オストロフスキー劇の登場人物たちのきわめて独自なタイプや、彼らの行動の鋭い心理的な動機付けも俳優を育て、彼らの専門的な芸に磨きをかけて、俳優たちの人間や文化に対する理解を深めたのである、と記している43)。

実際、俳優を主人公にしたオストロフスキーの劇は、彼らの苦しみや人道的なモノローグを通して単に観客に温かい人間的な感情を呼び起こしただけではなく、演じる側の俳優にも職業としての自覚や誇りを持たせたことも確かであると思う。たとえば絶望して身を投げようとしたアクシーニヤに女優になるようにすすめ「ここではお前の泣き叫ぶ声にも答えはない。しかし舞台ではお前の一粒の涙に何千もの目から涙が落ちるのだ」と語って一緒に巡業しようと説く、ネスチャストリーフツェフの言葉は説得力に富んでいる44)。

こうして、オストロフスキー劇はブルガリア近代演劇の成立に大きな役割を果したが、第一次世界大戦が始まるとブルガリアはドイツと提携し、1915年にロシアの使節団はソフィアを離れた。それと共に「国民劇場」で6年間演出家の地位にいたР・イワノフスキーも又、ロシアに帰国した。長い空白の期間を経て、ブルガリアにおけるオストロフスキー劇は新しい段階を迎える45)。

ブルガリア、ソフィア大学ブルガリアSt_Clement_of_Ohrid

(ブルガリア・ソフィア大学と聖クリメントオフリドスキー出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 

1.Т.А.Симачева,′Островский в Болгарии′,Литературное наследство,т.88.А.Н.Островский, кн.2 Наука,Москва,1974,   с.351~372

2.Стефан Каракостов,′Драматургията на Чехов на Българската сцена′, ″А.П.Чехов,1860~1960″,Българска Академия на науките, София,1961,с.54

3.Александр Николаевич Островский,Полное собрание сочинений в двенадцати томах,Москва, Искусство,1973~1980.

4.R・ヒングリー、『一九世紀ロシアの作家と社会』川端香男里訳、中公文庫、昭和59年,220頁。

5.中村喜和・灰谷慶三・島田陽著『ロシア文学案内――世界文学シリーズ』(朝日出版社、昭和52年)によれば以下の6つの戯曲が日本語に訳されている。

『収入ある地位』(「世界古典文庫」) 石山正三訳 日本評論社 昭22

『賢者の抜け目』(「世界戯曲全集」24) 熊沢復六訳 其刊行会  昭2

『どんな賢者にもぬかりはある』(「世界古典文庫」)  石山正三訳 日本評論社 昭24

『狼と羊』(世界文庫)、 石山正三訳 弘文堂   昭23

『森林』(「世界戯曲全集」24)、熊沢復六訳 其刊行会  昭2

『嵐』(「近代劇大系」16) 、米川正夫訳 其刊行会  大13

『嵐』(「ロシア文学全集」35)、米川正夫訳 修道社   昭34

『雷雨』(「世界戯曲全集」23)、矢住利雄訳 其刊行会  昭3

『雷雨』(「近代劇全集」27)、山内封介訳 第一書房  昭3

『雷雨』(ロシア・ソビエト文学全集1)、米川正夫訳、平凡社  昭41

『雪姫』(「世界童話大系」20)、松田衛訳  其刊行会  大13

『雪姫』(「世界少年少女文学全集」31)、池田豊訳  創元社   昭29

 

6.第二章は主として次の本を参考にしてこの時期のブルガリア史を概観した。

Ⅰ.マリン・V・ブンデフ,「ブルガリアのナショナリズム」,『東欧のナショナリズム――歴史と現在』,287~367頁,刀水書房,1981.

Ⅱ.″Болгарская литература,хрестоматия″,Высшая школа,Москва,1987.

Ⅲ.В.Д.Андреев,″История болгарской литературы,Высшая школа,Москва,1987.

Ⅳ.″Кратка българска енциклопедия  в 5 тома,Бьлгарска Академия на науките, София,1963.

7.1812年のブカレスト条約以降ベッサラビア(現在のモルダビア社会主義共和国)  には約4万のブルガリア人が移住した。

また、南ロシアのオデッサにも「オスマン・トルコの鎖から逃れて何千ものブルガリア人が移民して」、「19世紀の中頃に、オデッサはブルガリア国外の文化の中心の一つとなった」。オデッサにはその一室がブルガリア文学に当てられている国立文学博物館がある。その博物館が発行している博物館案内から、ブルガリアとのかかわりのある部分を要約して引用しておこう。「オデッサにはブルガリア史のロシア人研究家Ю・ヴェネリと、В・チェプリャコフが住んでいた。1841年にはブルガリアの教育や出版活動の様々な面について述べたアプリロフの『ブルガリアの教育のありかた』という本がここで出版され、1840年代にオデッサはトルコからの独立運動に参加したブルガリア人たちの避難所となった。Г・ラコフスキもここに住み、『ブルガリア語の手引き』などを出版したが、それらはブルガリアやロシアの若者の間で大評判となった。作家イヴァン・ヴァーゾフ(Иван Вазов,1850~1921)も又オデッサに住み、短編や1876年の4月蜂起を招いた長編『くびきの下に』の一部を書き上げた。後に彼は『私は約一年間オデッサに追放になったが、この追放の期間に感謝している』と書いている。1881年にオデッサで学んだアレコ・コンスタンチノフ(Алеко Константинов,1863~1897)はプーシキン、シェフチェンコ、レールモントフ等の作品をブルガリア語に訳した」(Одесский государственный литературный  музей: Путеводитель,Одесса,Маяк,1986,стр.131~133)

8.ツルゲーネフの『その前夜』とオストロフスキーの戯曲などとドストエフスキーの新しい理念の模索との関わりについては、拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2000年、72~74頁参照。『その前夜』の構造と『白夜』の構造との比較については、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年、192~195頁参照。

9.Д.Войников,″Ръководство за словесност″Виена,1874.с.127,より引用。

なお、Велчо Велчевはで、シシコフ(Т.Н.Шишков)もオストロフスキーに言及していると指摘している。(Българо-руски литературни взаимоотношения през ⅩⅨ-ⅩⅩ в、с.45、с.47)

10.この戯曲の抜粋は1877年にブルガリアで、作品集『スラヴの兄弟』にロシア語で掲載された。

11.Островский А.Н.,Полное собрание сочинений в двенадцати томах. Москва,Искусство,1973~1980. т.6,стр.568.(以下、オストロフスキーの全集は巻数とページ数のみを記す)

12.К.Державин.Болгарский театр.М.Л.,1950,стр.95.

13.″Рабство Мужей″,Полное собрание сочинений,т.9,стр.568.

14.Там же,стр.612.

15.マリン・V・ブンデフ,前掲論文,329頁

16.Т.Симачева,там же,стр.352

17.なお、この「涙と笑い」という名前とはブルガリア演劇史の中で度々出会うが、1909年から1930年にかけて様々な時期に5つの劇団がこの名前で存在していた。

18.Т.Танев. Спомени от първите години.《Театър》,1954,№12,стр.29

19.А.В.Каменец-Бежоева.Театр в Болгарии,《Театр и искусство》,1906,№38,стр.581

20.Л.Атанасова. Островски и столичната драматическа трупа 《Сълза и смях》 пред 90те години на миналия век.

21.Т.1,стр.374.

22.Т.3,стр.192.

23.Т.3,стр.210.

24.Т.3,стр.238.

25.С.Каракостов.Васил Кирков.-В кн.:《Годишник на Висшия институт за театрално изкуство 《Кръсто Сарафов》,т.2,1957、 София,1958,стр.19.

26.В.М.Масалова. На родной чужбине.-《Петербугский дневник театрала》,1904,№17,стр.7.

27.Васил Наллбуров,1863~1893。スタラ・ザゴラ市で生まれ、ニコラエフ市で教育をうけ、1890年から首都オペラ・ドラマ劇団の俳優となり、後に劇団「涙と笑い」の支配人となり、ゴーゴリの『検察官』、『結婚』を上演した。また、俳優としてもシラーの『たくらみと恋』のヴルム,ドルメフの『アッセンの殺害者、イワンコ』のイサクなどの役を演じた。

28.Т.Симачева,там же,стр.352.

29.Т.10,стр.432.

30.Т.10,стр.248.

31.Т.8,стр.11.

32.Т.8,стр.16.

33.Ф・М・Достоевский,Полное собрание сочинений,т.28,стр.23.なお、拙論「ドストエーフスキイとオストロフスキー(2)」東海大学紀要,第10輯,1990年、94~95頁参照。

34.Т.4,стр.

35.Т.Симачева,там же,стр.354

36.《Софийски ведомости》,1903,№146.стр.3.

37.Стефан Каракостов,′Драматургията на Чехов на Българската сцена′,″А.П.Чехов 1860~1960″,Българска Академия на науки

те, София,1961,с.54.

38.Записка по поводу проекта 《Правил о премиях императорских театров за драматические произвдения》,Полное собрание сочинений,т.10, стр.224.

39.Т.5,стр.424.

40.Т.3,стр.337.

41.А・П・Чехов,″Чайка″,Избранные произведения в 3 т,т.3 стр.428.(チェーホフ、『かもめ』、神西清訳、新潮文庫、97~98頁)。

42.А・П・Чехов,″Дядя Ваня″,Избранные произведения в 3 т,.т.3 стр.470~471. (チェーホフ、『ワーニャ伯父さん』、神西清訳、新潮文庫、184~185頁)。 43.Т.Симачева,там же,стр.360

44.Т.3,стр.313.

45.1967年にブルガリアには39の劇場があった。その内28がドラマ劇場、人形劇場が8箇所、残りの3つが軽演劇場である。

 

本稿の執筆に際しては、下記の日本語文献も参考にさせて頂いた。

『ロシヤ十九世紀文学史』上・下、岡沢秀虎著 早稲田大学出版部、昭51

『ソビエト文学史』 マークス・スローニム著 池田健太郎・中村喜和訳、新潮社、昭51

『ロシア文学の理想と現実』 P・クロポトキン著 高杉一郎訳、岩波書店、昭59

『ロシア・ソヴェート文学史』、昇曙夢著、昭51

『ロシア文学史』 木村彰一、北垣信行、池田健太郎 明治書院、昭47

『ロシア文学史』 川端香男里著  岩波全書、昭61

『ロシヤ文学案内』 金子幸彦著 岩波文庫、昭36

なお、本論の執筆に際しては小船井文司教授より貴重なご助言を頂いた。

        (『バルカン・小アジア研究』第16号、1990年)

 

大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン」を聴いて

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大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン ――中編小説『火事』のラストシーンの解釈」を聴いて

今回の発表は、イタリアの国際的文学賞を受賞した短編などを収録した作家ラスプーチンの短編集『病院にて――ソ連崩壊後の短編集』〈群像社〉の翻訳を公刊したばかりの大木氏の発表であった。

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ラスプーチンとは個人的にも旧知の間柄である大木氏は、波乱にとんだ作家の人生を略年譜で分かりやすく説明しながら、中編小説『火事』のラストシーンでの「永遠に姿を消してしまう」という描写の謎に鋭く迫った。ことに、宮沢俊一訳を踏まえて新らしく訳出した最終章の朗読は、重厚で深い陰影と示唆に富む文体をとおして、ラスプーチン自身の生の声を聞くような感さえあり、聴衆の深い共感を呼んで『火事』全体を大木訳で読んで見たいという感想も出たほどであった。

そして、正教における「復活」の重要性を強調した氏は、ラスプーチンも洗礼を受けて正教徒となっていることに注意を促して、『火事』の主人公と『カラマーゾフの兄弟』の「ガリラヤのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写との類似性を指摘した。さらに、大木氏はドストエフスキーが1864年のメモで人類の発展を、1,族長制の時代、2,過渡期的状態の文明の時代、3,最終段階のキリスト教の時代の三段階に分類していたことを指摘し、『火事』とドストエフスキーの『おかしな男の夢』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発ということにあると述べた。

特に私が関心を持ったのは、『白痴』における「サストラダーニエ(共苦)」という用語や「美は世界を救う」というテーマの重要性を強調した氏が、ムィシキンを「シベリアから還った」とする小林秀雄の解釈には無理があり、むしろ未来の「キリスト教の時代」から来たと言うほうが適切だろうと批判した点である。

たしかに、芦川進一氏が指摘するように「『白痴』Ⅱ」に記された「聖書には、生きる事に関する、強い素朴な一種異様な畏敬の念が一貫していて、これが十字架のキリストに至って極まっている様に見える」という文章は名文で心に深く残る。しかし、第3章に記されたこの文章は、第9章の「『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかった。来たものは文字通りの破局であって、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」という文章へと続いているのである。小林秀雄のムィシキン観の問題は、今後の詳しい検討の課題といえるだろう。

「農村」の重要性を訴えた作家の視点に対しては、果たしてこのような価値が現代において意味を持ちうるのかという鋭い質問も出されたが、「原発などによるすさまじい環境破壊」で「人類が危機的状況」にある一方で、夢物語のように思われていた自然エネルギーは、科学の発展によって可能性を増大させている。ドストエフスキーが唱えた「大地(土壌)主義」とその問題意識を現代に受けついでいる作家ラスプーチンとその作品の意味はきわめて大きいと思える。

「ドストエーフスキイの会 ニュースレター」117号

 (201年1月12日改訂、2015年3月26日、「ドストエーフスキイの会」〈第215回例会傍聴記〉より改題)。