第七回国際ドストエフスキー・シンポジウムは「ドストエフスキーと二〇世紀」の大テーマの元にユーゴスラヴィア北部、スロヴェニア共和国の首都リュブリャーナで1989年の7月22日から29日にわたって行われた。
リュブリャーナは城のある丘を取り囲むように静かに流れるリュブニツァ川に寄りそうように広がる、古いドイツの城下町を思わせる美しい町である。今回、日本からの参加者はモスクワの長期滞在を終えたばかりの井桁貞義氏と私の二人だけであったが、私たちはモスクワと比べて豊富な品物やサービスの良さだけでなく、一年半で二〇倍にも跳上がるインフレにも驚かされた。しかし、この町の人々はインフレを気にするふうもなく、あちこちに点在する南国風のカフェには日暮れともなるといずこともなく若者たちが集まり、物静かに談笑していた
さて、シンポジウムは「ドストエフスキーと二〇世紀の歴史的現実」、「ドストエフスキーの作品における象徴とロシアの象徴主義者たち」、「ドストエフスキーと二〇世紀の宗教・哲学思想」、「ドストエフスキーと二〇世紀文学」、「二〇世紀の演劇及び芸術におけるドストエフスキー」の五つのテーマをめぐって発表や討論が行われ、ドストエフスキーが二〇世紀に与えた影響が詳細かつ、多面的に考察された。この他、夕食後には、「ドストエフスキー ――病気と芸術的創造」という題や「ドストエフスキーと黙示録」という題の二〇世紀末の現在を反映するような共同討議も持たれ、フロイトとドストエフスキーの関係を論じたものやチェルノブイリの原発事故を論じた報告者も出るなど白熱した論議が行われた。
ところで、今回も世界各地から八十名近い研究者が集ったが、ことにソ連からはG・フリードレンデル氏を始め、八名の研究者とレニングラードおよびスターラヤ・ルッサのドストエフスキー博物館の二人の館長が大挙参加した。そして、ソ連側の報告にはこれまでの伝統的な研究の他に、ドストエフスキーの作品が『われら』に及ぼした影響を論じたトゥニマーノフ氏の発表や、『悪霊』をとりあげて権力と潜称者について論じたサラースキナ女史の発表、そしてロシア・イミグラントたちの宗教的なドストエフスキー論を取り上げたベローフ氏の報告など、これまでの研究領域を大きく踏み出すものが見られた。研究者の一人は「ペレストロイカの時期だから来ることができた」と語ったが、確かにペレストロイカの動向はドストエフスキー研究にも無視しえない影響を与えているようだ。
今回は特に「ユーゴスラヴィアの日」が設けられ、「ドストエフスキーとユーゴスラヴィア文学」のテーマでユーゴの各共和国の研究者を中心に一〇本の報告が発表された。このような試みもまた各民族の独自性を尊重しようとするペレストロイカの流れと無関係ではないであろう。
だが、ペレストロイカでの歴史の見直しや個性や自由の再評価は、バルト三国を始めアルメニアなど各共和国で民族意識の昂揚をも生みだしており、前世紀の末に多くの流血と犠牲の上に民族の枠を越えた国家として成立した筈のソ連邦は、一世紀を経過して今世紀の末に再び民族の単位で分裂する危険性をすらかかえているように見えた。そして、民族問題はソ連邦にとどまらず、かつて私が遊学したことのあるブルガリアでもトルコ人の抑圧の問題が、そして開催地のユーゴでも各共和国間の対立が新聞で取り上げられていた。南スラヴの一都市で開かれたこのシンポジウムに、ソ連邦や東欧がかかえるこれらの問題がどのような形でドストエフスキーを通して論じられるのかということに私は強い関心と期待を抱いていた。そして、その期待は裏切られなかった。
シンポジウムの間中、私は多くの個性的ですぐれた名優たちがドストエフスキーという主題をめぐって演ずる劇場にまぎれこみ、筋書のない、時には思いがけぬ展開を見せる劇の観客になったような興奮につねにとらえられていた。たとえば、プログラムにはブラット湖への旅行が20ドルで組まれていたが、東欧やソ連の研究者からの強い批判が起き、ついには全員が無料で参加することになったことがある。マケドニアの学者から同じユーゴでもマケドニアとスロヴェニアでは3倍の貧富の差があり、20ドルというのは自分達にとっては大変な高額だと説明されて半信半疑だった私は、次にポーランドの研究者から彼の祖国では20ドルあれば一ケ月を裕福に暮せると聞かされて言葉を失った。びっしりと組まれたプログラムを終えた後、私たちは場所を変えてビールを片手にドストエフスキーやペレストロイカをめぐって話しつづけたが、その時すでに重大な出来事は丁度、チェーホフ劇のように舞台の外で起きていたのだろう。シンポジウムの幕がおりた八月に入ってから、今に至っても続く東欧の激動が始まったのである。
この意味で私が一番関心を抱いたのは、井桁氏が司会をされた「ドストエフスキーと二〇世紀の歴史的現実」の部会で発表したポーランドの研究者ラザリ氏の報告である。彼はドストエフスキーの「ナロードノスチ(国民性、民族性)」という概念を取り上げ、この概念が社会主義ソ連では初め否定的な形で捉えられていたが、スターリンの時代に復権し、文芸評論家たちによって重用されていたと分析したのである。氏の直後に立ったソ連側の報告者は気分を害して「ロシア語を理解しない参加者もいるようですから、私の報告は五分程で終わらせてもらいます」と語り、司会者から宥められるような一幕も生みだしたが、彼の報告は参加者の間で激しい反発や困惑を招いた。すなわち、ある者はドストエフスキーが侮辱されたと怒り、ある者はドストエフスキーの小説と評論は分けて論じるべきではないかと語った。しかし、東欧の研究者を中心に高い評価も得ていた。それは彼の指摘が現代の多民族国家ソ連や東欧圏の問題点をも突いていたからだろう。
さて、私は「ドストエフスキーと二〇世紀の宗教・哲学思想」の部会で「『罪と罰』における良心の概念の問題」という題で発表した。ベルジャーエフは「何びともドストエフスキー以前、彼ほどに良心の呵責と悔恨を研究したものはいなかった」と述べてその重要性を指摘したが、個々の作品における具体的な「良心」の概念の分析はあまりなされていないように見えたからだ。
長編小説『罪と罰』において、一見、良心は否定的な働きをしているかに見える。しかし、私たちは『罪と罰』が哲学書ではなく、小説であることに注意を払わねばならないだろう。単語「良心」は生身の体を持つ登場人物の口を通して様々な人間関係の中で語られるのである。さて、小説の冒頭で大学生は対話者に「我々は義務や良心をどう解釈しているのか」という問いを発しながら、自分の問いには答えていない。しかし、彼と同じような理論を有するラスコーリニコフは彼の言葉を補うかのように「非凡人」は「自分の内部で、良心に照らして、血を踏み越える許可を自分に与える」のだと語るのである。こうして、冒頭で発せられた大学生の問いは『罪と罰』全体を覆っており、ドストエフスキーは『罪と罰』の中で読者と共にラスコーリニコフの「良心」解釈について深い考察を行っているのである。
そしてこの点に注意する時、この長編小説では単語「良心」は様々な状況の元で何人もの人間によって語られ、しかもそれらの使用法では意味が異なっている場合もあることが明らかになる。たとえば、学生と将校との会話やラスコーリニコフとポルフィーリイとの対話の中での用法はよく知られているが、この他の緊張した会話の中でも「良心」は無視しえない役割を担っているのである。たとえば、母の手紙を読み終えたラスコーリニコフは、兄のために愛してもいない人物との結婚を承諾したドゥーニャのことを考えながら「おお、こういう場合我々は、自分の道徳的感情をも押さえつけてしまうし、自由も安逸も、はては良心までも、何もかも一切合財、ぼろ市にだしてしまうのだ」と考えている。一方、スヴィドリガイロフは、奥さんを殺したのはあなたでしょう、というラスコーリニコフに対して「自分の良心はこの点にかけては、しごく平静なものです」と語り、ドゥーニャにも彼女が兄のために自分の要求を認めて体を許しても「あなたの良心には、なにもやましいところはない」と説得している。一方、スヴィドリガイロフから兄の理論を聞いたドゥーニャは「でも、良心の呵責ってものが? そうすると、あなたは兄に道徳的な感情がまるっきりないと思っていらっしゃるんですね」と問い詰めているのである。
このように見ていく時、私たちはラスコーリニコフの「良心」の用法においても二つの対立的な概念と出会う。第一の概念はカントと同様に義務の概念と強く結びついている。それはそれ自体は何も悪いものではないが、間違った理論と結び付くことによって、ラスコーリニコフを犯罪へと追いやる。第二の概念は、道徳的感情と結び付いている。作者はラスコーリニコフの感触を正確に描き出しながら、彼の感覚が常に理性の決定に反対していたが、あまりに理性を高く評価したラスコーリニコフは自分の感情を軽蔑しそれに注意を払わなかったことを強調しているのである。
幸い私の報告は好意的な評価を受けたが、その理由の一つは冒頭で中国の事件に言及し「人が死ぬことを恐れるな。北京で十万人死んでも大丈夫だ。北京でこのような暴徒を完全に排除しなければ、将来に禍根を残す」という高官が語ったと伝えられる言葉と「……とにかく一億人の首だって、そう恐れるにはあたりません。なぜかと言って、呑気な紙の上の空想を追っていたら、百年ばかりの間に専制主義が一億どころか、五億人の首でも食い尽くしてしまいますからね」(江川卓訳)という『悪霊』のピョートルの言葉を比較しながら、ピョートルにも彼独自の良心の理論があったことを指摘したためかもしれない。
ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々がその真理を主張して互いに殺し合いを始め、ついにはほんの数人を除く全人類が亡んだという、すさまじい夢をラスコーリニコフに見させる。ドストエフスキーは「良心」理解が、誤った思い込みに陥った時の危険性を鋭く批判していたのであり、残念ながら地球が何回もゆうに消滅するだけの核兵器を有しながら、イデオロギーや宗教の違い、さらには民族のちがいなどによってなおも争いを続ける「現代」の持つ危険性を鋭く予言しえていたと言えるだろう。
総会では、人事と次期の開催地の問題が議題として取り上げられ、ノイホイザー氏が会長に選出され、日本側委員には木下豊房氏が再選された。また、次回は1992年の8月1日から5日までノルウェーのオスロで、開かれることが選挙の結果決定された。会議の席では、会の財政上の困難が指摘され、機関誌(“Dostoevsky Studies”)の購買を含めた会員の援助が求められた。なお、私たちは『ドストエーフスキイ研究』第三号と最近の例会会報を手渡したが、その時、それらは日本の「ドストエーフスキイの会」が活動していることを物語ってはいても、何が書かれているかを外国人には何も伝えていないということ、つまり、丁度経済力はあるけれども何を考えているかは分からない「無口な日本人」、あるいは閉鎖的な日本文化のイメージと重なるかもしれないということを痛感した。
実際にそのことを若い研究者たちから率直な批判もされた。確かに情報の点でも単に外国の研究を紹介する段階から、日本での研究をも積極的に外国に発信する機能も持つべき時期に来ているようだ。その年度のドストエフスキー関係の論文、書物一覧を載せるだけでなくその欧文訳や、さらに一歩進めて欧文の目次や論文のレジュメもこれからは掲載してもよいようにも思える。
シンポジウムを終え飛行便を待っていた私は、帰国の前夜レニングラード出身のトゥニマーノフ氏とともに川辺を歩いたが、その折、氏は「美しい川だ」という感慨をポツリと語った。以前、とうとうたるネワの流れと比較しながら、こんな小さな川では川という感じがしないなあという感想を語っていた氏の言葉に私はなぜか、大国ソヴィエトのペレストロイカの遅々たる歩みや民族問題に心を痛めるロシア人研究者の苦悩をも感じた。
リュブリャーナのシンポジウムで私は単に様々なドストエフスキー研究者たちと知り合うことができただけでなく、改めて現代社会の相互の緊密な係わりをも実感しえたように思う。民族問題を初め様々な問題を抱えるソヴィエトや東欧がこの後どのように進んでいくのか、ドストエフスキーの問題と共に見つめていきたい。(本稿では肩書きは省略した)。
(「第100回例会報告」、『ドストエーフスキイの会会報』第111号、1989年。『場 ドストエーフスキイの会の記録』Ⅳ、1999年に再掲。HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部変更するとともに、文意を正確に伝えるための最低限の訂正を行った)