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狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって

狂人にされた原爆パイロット――堀田善衞の『零から数えて』と『審判』をめぐって

はじめに

今年は堀田善衞(1919~1998)の生誕100周年、没後20年にあたるが、堀田はキューバ危機後の1963年8月1日に朝日新聞に掲載された「原民喜の文学と現代」で、被爆した原が「私はあの原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落して来た人間のやうな気持ちがするのであった」と書いていることに注意を向けてこう記していた*1。

「われわれは現在、二つの死にはさまれて生きているようなものなのかも知れない。一つは各人の内部にあってゆっくりと成長し成熟しつつある死であり、もう一つは核弾頭の大群のなかですでに蓄積されている『慌しい無造作』な死である」。

後に堀田が東京大空襲の体験を踏まえて、『方丈記私記』を書いていることを考えるならば、彼が原民喜の詩をどのように捉えていたかがこの短い文章からも伝わってくる。昨年は「核兵器禁止条約」が結ばれ、ICANにノーベル平和賞が与えられるなど新しい流れが生まれたが、その一方で、『原子力科学者会報』は核戦争の懸念の高まりやトランプ米大統領の「予測不可能性」などを理由に、今年の「終末時計」の時刻がついに1953年と同じ残り2分になったと発表した。

「核の危険性」や地球環境を全く理解していないトランプ大統領が核の使用についても言及したことから、再び、核兵器を中心とした軍拡が進むことは明白で、世界はふたたび「人類滅亡」の危機を迎えているといっても過言ではないと思える。

この意味で注目したいのは、原爆投下の先導を務めた天候観測機の機長で帰国すると英雄として歓迎されたが、後に罪の意識から自殺をはかったばかりでなく、何度も強盗事件を起こして自らを「犯罪者」としようとしたことで、狂人とされた原爆パイロットがいたことである。

本稿ではそのイーザリー元少佐をモデルとした堀田善衞の中編小説『零から数えて』と長編小説『審判』を、小林秀雄のドストエフスキー論やエッセー「良心」を視野に入れつつ、『白痴』と『罪と罰』との関連で分析することによりこれらの作品の深みと現代性を明らかにしたい。 (本稿では敬称は略し、『堀田善衞全集』からの引用に関しては、本文中のかっこ内に巻数と頁を示す)。

,中編小説『零から数えて』とドストエフスキーの『白痴』

宮本研の戯曲『ザ・パイロット』(1964)は、戦争の「英雄」が起こした犯罪がアメリカの地域社会にもたらした困惑を判事の言葉をとおして見事に描き出している*2。それゆえ、堀田の作品を考察する前にこの場面を簡単に見ておきたい。

「被告クリストファ・リビングストンは、三つの点においてわが地域社会に名声を博しておる人物であります。一つは、第二次大戦における特殊な勲功により名誉勲章を授けられた当市の英雄であること。二つは、にもかかわらず、被告は前後七回にわたる強盗事件を惹起していること。三つは、それら七回にわたる犯罪のすベてについて、法廷においてつねに、みずから、無罪をではなく有罪を主張していることであります」。

そして、判事はこの裁判が「特殊に困難な判断を陪審員諸君に要求していること」を強調したうえで、「本件の有罪ないし無罪を評決するにあたって、アメリカ合衆国ならびにテキサス州の正義と良心を十二分に示されるよう期待します。神のお恵みが当法廷と諸君の上にありますように」と結んでいた*3。

このような事件を起こして狂人とされていた原爆パイロットをモデルとして堀田善衞が最初に書いたのが、1959年11月から翌年の2月まで『文学界』に連載された中編小説「零から数えて」であり、1960年6月に文藝春秋から単行本として刊行された(5・393~394)。

4つの章から構成されているこの中編小説の最初の節には「雨ノナカヲアルイテイルダケダヨ」という題名が付けられているが、読者は冒頭から現実的な世界ではなく、奇妙な世界へと引きずり込まれる。

すなわち、そこでは「高い、二階までぶちぬきの空間で」、ゆらりゆらりと「チカチカと神経を刺すような光り方」をしながらゆっくりと揺れるように廻っている「モビルまたはモビレ」の様子だけでなく、壁に掛けられている八枚の巨大な「インカ帝国の相撲とりの絵」について長々と描かれているのである(5・171~172)。

しかも、ハイ・ファイ・ステレオからはそれまでのモーツァルトの音楽にかわって「――ジャスト・ウォーキング・イン・ザ・レイン/ ――雨ノナカヲアルイテイルダケダヨ」というフレーズが何度も繰り返される音楽が流れてくる。

このような異空間ともいうべき風天堂という名の喫茶店に、主人公が待ち合わせていた女性の代わりに、友人のFがデーヴィッドという得体の知れない西洋人を連れて現れ、さらに原爆被爆者だった恩師が首吊り自殺したことによって到着が遅れていたY女がようやく到着するところから物語が動き出す。

重要な登場人物が頭文字で記されることには最初、強い違和感を覚えたが、この節ばかりでなくその後の章でも何度となく繰り返されている「雨ノナカヲアルイテイルダケダヨ」というフレーズにも違和感を覚えながら読み進める内に既視感を思えた。評論家の寺田透が指摘していたように、ドストエフスキーの『白痴』では、エパンチン家の次女アデライーダの婚約者は単にS公爵とのみ記されており、その後では謎の「貧しき騎士」についての議論が記されていたのである*4。

一方、戦時中に書いた卒論で「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を論じていた堀田善衞も*5、その手法を意図的に用いていることで、読者の注意をデーヴィッドに向けようとしているように思えた。なぜならば、彼を紹介したFの言葉を記したあとで、主人公は「こいつひとり、ばかに具体的な名前を持っている。デーヴィッドか、つまりダビデだな」という感想を抱き、Y子が「誰かに追われてでもいるの、兇状持ちなの?」と尋ねてもデーヴィッドは明確に答えなかったので、この男の正体はわからないままに物語は進められていくからである(5・178~187)。

解説者の佐々木基一は冒頭の記述などを例に挙げながら、「作者自身にも整理のつかない精神の揺れ」などが「作品を溷濁させている」と書き(5・387、390)、研究者の鈴木昭一も平野謙の言葉を引用しながら、「直截な描写」をさける「推理小説的手法がかなり目ざわり」であると批判している*6。

たしかに、朝鮮戦争が勃発する緊迫した時期を描いて芥川賞を受賞した堀田の短編「広場の孤独」には、主人公の木垣が訳した探偵小説『さまよう悪魔』のことが記されているが*7、年譜によればそれが同じ1951年に堀田によって翻訳されたアガサ・クリスティーの『白昼の悪魔』(早川書房)のもじりであることがわかる*8。堀田は1957年にも『A・B・C・殺人事件』(東京創元社)を翻訳刊行しているので、このような批判は事実の一端を穿っているだろう*9。

しかし、主人公を「謎」の人物としながら書き進めるという方法に注目するとき、デーヴィッドの形象から強く連想されるのは、スイスで精神の治療を受けていたが莫大な遺産を譲り受けたことで、人々の役に立ちたいと祖国に戻り、初対面の相手にギロチンによる処刑の非人道性を語るなど奇矯な言動で人々を驚かせたムィシキンである。

堀田善衞も後に受験のために上京した主人公が翌日に2・26事件と遭遇するところから始まる自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を連載し、そこでは「外界」から「入って」来たムイシュキンは、混乱したロシアの欲望のウズに巻き込まれて、「その終末にいたって、天使はやはり人間の世界には住みつけないで、ふたたび外国の、外界であるスイスの癲狂院へもどらざるをえない」と記していた*10。

一方、 “A”の恐怖を人々に語りかけるデーヴィッドも登場人物のみどりからは「あの人はキリストだ」と思われるが(5・251)、最後には「月光党」という謎の団体が行うパーティで、青い光を浴びて揺れながら光っている「アルミのモビルあるいはモビレ」の垂れ下がる舞台で、演説をしている最中に「スパイ機関」か「気違い病院の人」たちに連行されるのである(5・301~305)。

中編小説『零から数えて』では普通は数字で示される各章の節に、第一章ではA,B,Cが、第2章では小文字でα、β、γが、後半の第3章と第4章には最後の文字であるX、Y,Zと、χ、φ、ωが付けられている。非常に奇妙な節の番号の付け方だが、デーヴィッドに「水素爆撃(ヘル・ボーム)のおちる前に、わたしは、インセクトになりたい、と思います」と語らせた堀田は、デーヴィッドに「……5,4,3,2、1……0」と英語でカウントをとらせている(5・187)。

原子爆弾のことが“A”で示唆されていることも考えるならば、『零から数えて』という人を食ったような題名が付けられているこの長編小説にわざわざギリシャ語のアルファベットで節の番号が記されているのは、「私はアルファでありオメガである」という新約聖書の「ヨハネ黙示録」第22章13節に記された神ヤハウェの言葉を示唆しつつ、“A”が開発された後に来る「世界の終末」を読者に連想させようとしていたからだと思える。

事実、広島と長崎に原爆が落とされた2年後の1947年には、アメリカの科学誌『原子力科学者会報』が世界終末時計を発表して、その時刻がすでに終末の七分前であることに注意を促していたが、中編小説『零から数えて』が刊行されてから2年後に起きたキューバ危機では、核戦争による「世界の終わり」の可能性さえも語られていた。原爆パイロットをモデルとしたこの長編小説からは、目の前の経済的な繁栄に惑わされて、核の時代の現実から目を背けている日本人の歴史認識に対する厳しい問いかけが感じられる。

2,小林秀雄のエッセー「良心」と堀田善衞の長編小説『審判』

やはりイーザリー少佐をモデルとした長編小説「審判」は1960年1月から1963年3月号まで短い休載をはさみながら雑誌『世界』に連載されたが、不思議なのは「零から数えて」の連載が文藝春秋の発行する雑誌『文学界』でまだ続いていた時期に堀田善衞がこの長編小説を書き始めていることである。

おそらくその理由は、中編小説「零から数えて」の初回と同じ1959年11月に、小林秀雄が雑誌『文藝春秋』に発表したエッセーで、「良心は、はっきりと命令もしないし、強制もしまい。本居宣長が、見破っていたように、恐らく、良心とは、理智ではなく情なのである」と書き、「思想の高邁を是認するものは思想であり、行為の卑劣残酷に堪えないものは感情である」と記していたことと深く関わっているのではないかと思える*11。

なぜならば、ドストエフスキーが1866年に発表した長編小説『罪と罰』では、ギリシャ語などで「共―知」を意味する「良心」の問題が深く考察されていたが*12、小林秀雄は言論に対する弾圧が厳しくなり始めていた1934年に書いた『罪と罰』論で、核心となる良心の問題にはとんどふれずに「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と断言していたからである*13。

しかも、戦時中の発言などについて鋭く問いただした本多秋五にたいして小林は、「自分は黙って事件に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい」と啖呵を切っていた*14。

しかし、大岡昇平との対談で埴谷雄高が明かしているように「それは、小林さんは座談会のときは言ってなくて、あとで書いたもの」だったのであり、大岡も「あとでほかの人がいってることを先にとるのはいけないね」と語り、さらに「黙って事件に処してはいないよ、あいつ(笑)」と語っていた*15。

一方、1962年8月に『ヒロシマわが罪と罰』という題で翻訳書が公刊された原爆パイロット・イーザリーと精神科医アンデルスとの往復書簡の原題は、“Off limits für das Gewissen(良心の立ち入り禁止)”であった*16。

この題名からはこの著書の主要なテーマが、原爆投下についての主人公の「良心の呵責」の問題であることが明確に示されており、先に見たように『罪と罰』でも「良心」の問題が主要なテーマの一つであったことを想起するならば、「ヒロシマわが罪と罰」という邦題も適訳であったといえるだろう。

小林秀雄も1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談では、原子爆弾について「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語り、「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ」と続けていた*17。

エッセー「良心」で長編小説『悪霊』の主題となるネチャーエフ事件に言及して「もし見る人に良心が働かなければ、ネチャアエフ自身におけるが如く、問題とはなり得ない。良心の針は秘められている。だから、私達は皆ひそかにひとり悩むのだ」と記しつつ、原爆の非人道性を鋭く指摘したイーザリーの言動については完全に沈黙している小林の「良心」理解が問われるだろう。

一方、中国人の知識人の視点から南京虐殺を描いた長編小説『時間』を1955年に刊行していた堀田は、この長編小説『審判』でもイーザリーをモデルにしたポール・リボートだけでなく、戦時中に中国大陸で上官に命じられて老婆を虐殺した生々しい記憶に苦しんで自殺を試み、離人症にもかかっていた高木恭助の深い苦悩をも描いている(6・56~62)。

原爆の問題を直視する原民喜の文学についての考察も深めていた堀田善衞は、1954年のエッセーで「裁判を扱う偉大な作品」として『ベニスの商人』『赤と黒』『復活』などとともに『罪と罰』を上げ、さらに「キリストもまた、裁判について痛烈なことばをのこし、また自ら十字架にかかっている」と記していた*18。そのことに留意するならば、『審判』という題名は、主人公の「良心の呵責」を描いたドストエフスキーの『罪と罰』を強く意識して付けられていたように思える。

実際、第一部第一章の題名は「一つの物語の終わりから」と付けられているが、『罪と罰』の愛読者ならば、この題名が「ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語」と始まり、「しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった」と結ばれるエピローグの最後の文章から取られていることがわかるだろう*19。

しかも、自分の理論を信じて高利貸しの老婆とその義理の妹を殺したラスコーリニコフが「復活」するのが流刑先の厳寒の地であるシベリアだったことを思い起こすならば(6・18~21)、原爆パイロットのポール・リボートが「『日本から』来た」冷寒地研究家の出(いで)教授と出会ったグリーンランドも、「ひとりの人間が徐々に更生していく物語」の出発点となるはずだった。

しかし、日本に行くことに「ほとんど全部を賭け」ていたポールが「対ソ作戦用の、主としてシベリアを目指した寒冷地研究」で有名な出教授の洋館に寄寓したことで、彼は安全保障条約が調印される前年の1959年の騒然とした日本の政治・社会状況に巻き込まれることになる。

同居することを条件にこの洋館を姉夫婦に売りつけた高木恭助とともに住む教授の家族構成も、日本の社会状況をきちんと見渡すことができるように工夫がなされている。すなわち、出教授の母の郁子は明治の自由民権運動の体験者であり、大学でドイツを中心とした国際関係史を教えている講師の長男・信夫もアメリカを批判的に見ているが、女優となった長女雪見子には外務大臣の愛人がおり、次女の唐見子は卒業と同時に家を出て玩具輸出商に勤めており、教養学部の学生である次男の吉備彦は、安保条約に対する反対するデモにも参加しているのである。

そのことが「倶会一処(くえいっしょ)」と題された第2部の第8章ではカーニバル的な手法で、ポールが主賓として招かれた晩餐会に派手好きな妻の弓子のところに女官長となった女友達が訪れ、さらに安全保障条約に反対するデモに参加して瀕死の重傷を負った吉備彦の友人・柳村がタクシーで運ばれてくるという緊迫した場面を描くことを可能にしている(6・181~200)。

こうして、『罪と罰』が当時の帝政ロシアの政治・社会状況をきわめて正確に映し出していたように、この長編小説も「戦争の最高責任者の一人であった人間」が総理大臣になり、原爆投下の罪をアメリカ政府に問うことなく、むしろその意向に迎合するかのように核武装をも示唆するようになっていた1959年の騒然とした日本の政治・社会状況を見事に描いている。

さらに、『罪と罰』では自首の決意をしたラスコーリニコフが、自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と妹に反駁したと描かれているが、「キリストは一人か」と題された『審判』の第2部第14章では、恭助との対話でポールに平時には「人を殺した人は、罰せられなければ」ならないが、戦争の場合は国家が国民に「敵国民を殺せ」と命令するが、「殺した人の罪を、国家は決して背負って」くれませんと語らせている(6・260)。

このポールの言葉からは著者がラスコーリニコフの重たい問いをも受け継いでいることが感じられるが、その反面、多くのテーマを盛り込んだために登場人物の掘り下げが不十分でリアリティに乏しく、長編小説全体の印象が散漫になったという感はぬぐえない。

ただ、長編小説『審判』の最後近くで堀田はポールを追って広島を訪れた恭助に、「もし原子爆弾や水素爆弾が悪であり否定し廃止すべきものであるとしたら、それはこの武器が、一切を虚無化して行くからなのだ」と考えさせている(6・504)。日本でも心の平和を得られなかったポールが、口まで裂けた能面の「橋姫」の表情を思いつつ、「ワタシハ―……オニデス……」と叫びながら、平和大橋から自殺するという結末は重たい。

ドストエフスキーの『罪と罰』を踏まえつつ、多くの市民を虐殺した原爆の非人道性に苦しんだ原爆パイロット・イーザリーをモデルにして1960年代初頭に書かれた長編小説『審判』は、現代の日本国民にも核兵器廃絶への意志を問いかけていると言えるだろう。

 

*1『堀田善衞全集』第16巻、筑摩書房、1974年、196~197頁。

*2 宮本研は「『ザ・パイロット』の美学」で同じテーマの作品として、いいだ・ももの『アメリカの英雄』(1965)を挙げているが、扇田昭彦は「解説」でつかこうへいの長編小説『広島に原爆を落とす日』(1986)も挙げている(『宮本研戯曲集』第2巻、白水社、1989年、322頁、340頁)。

*3 同上、93頁。

*4 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、155~157頁。

*5 『堀田善衞全集』第16巻、筑摩書房、 1975年、8頁。

*6 鈴木昭一「堀田善衞諭――「審判」を中心として」『日本文学』16巻2号、1967年、85頁。

*7 堀田善衞『広場の孤独 漢奸』、集英社文庫、1998年、111頁。

*8 ジブリのwebサイト「堀田善衞『時代と人間』」掲載の年譜より。なお、作品の構造は全く異なるが、この作品の山場となる謎の外国人から渡されたドルの札束を燃やすというシーンは、明らかに『白痴』のナスターシヤが渡された持参金を暖炉に投げ入れるというシーンを意識していると思われる。

*9 『若き日の詩人たちの肖像』でもアガサ・クリスティーの『そして、誰もいなくなった』が効果的に引用されているが、ドストエフスキーもエドガー・アラン・ポーの推理小説的な方法を高く評価していた(染谷茂訳「ポーの三つの短編小説」、『ドストエフスキー全集』第25巻、新潮社、1980年、349頁)。

*10 堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』下巻、集英社文庫、1977年、100頁。この記述がムィシキンが「外国」からではなく「シベリヤから還つた」と解釈した小林秀雄の『白痴』論に対する批判である可能性が強いことについては、高橋「公式ホームページ」参照。http://www.stakaha.com/?p=7796

*11 小林秀雄「良心」『考えるヒント』、文春文庫、新装版、2004年、70~71頁。

*12 С.Такахаси Проблема совести в романе ”Преступление и наказание” //Достоевский: Материалы и исследования. Л.,  Наука, 1988. Т.10. С.56-62. および、高橋、『「罪と罰」を読む(新版)』(成文社、2000年)、98~102頁、158~163頁、180~184頁参照。なお、ドストエフスキーの作品において重要な役割を担っている「共苦(サストラダーニエ)」については、高橋「公式ホームページ」、書評・大木昭男著『ロシア最後の農村派作家――ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社、 2015年)http://www.stakaha.com/?p=5997 参照。

*13 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、45頁。および、高橋「公式ホームページ」、高級官僚の「良心」観と小林秀雄の『罪と罰』解釈――佐川前長官の「証人喚問」を見てhttp://www.stakaha.com/?p=7972 参照。

*14 『小林秀雄全作品』第15巻、新潮社、2003年、34~36頁。

*15 『大岡昇平全集』別巻. 筑摩書房, 1996年、211~212頁。

*16 『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(篠原正瑛訳、1962年、筑摩書房)。なお、同書に収められているロベルト・ユンクの解説「良心の苦悩」、および髙橋「公式ホームページ」、「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧 http://www.stakaha.com/?p=4559 参照。

*17 『小林秀雄全作品』第16巻 、新潮社、2004年、51~54頁。

*18 『堀田善衞全集』第15巻、筑摩書房、 1975年、78頁。

*19 ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』下巻、岩波文庫、2000年、404頁。

*   *

追記

*9 アガサ・クリスティーの『そして、誰もいなくなった』では、日本語に訳すとまだ固い感じのある「良心」という単語が、効果的に5回(92,102,135、329、367)も用いられており、「自分は絶対に正しいと、信じ切っている」人物(153)による殺人と「良心」の問題が深く考察されている。

*12 ドストエフスキーは大学生に「問題はわれわれがそれら(義務や良心ーー引用者)をどう理解するかだ」と根源的な問いを発しさせているように、「良心とはなにか」という問いは小説の終わりまでロシアや欧米読者の強い関心を引きつけて、ラスコーリニコフが発言した「良心に照らして流血を認める」ということが可能かどうかを詳しく検証していた。

(『世界文学』(127号)より転載。転載に際しては、堀田善衛の表記を堀田善衞に改めた)。

 

 

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