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商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

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はじめに――『坂の上の雲』から『菜の花の沖』へ

『坂の上の雲』(1968~72)において、明治初期から日露戦争の終結に至るまでの激動の歴史を描いていた司馬氏はこの長編小説の後で、勃発寸前までに至った日露の衝突の危機を救った江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』(1979~82)を描いていた。

本発表では『坂の上の雲』をも視野に入れることにより、近代化の問題に鋭く迫った『菜の花の沖』の現代的な意義に迫りたい(ここでは配付資料に図版とリンク先を追加した)。

Ⅰ.『菜の花の沖』の時代と「江戸文明」の再評価

a.『菜の花の沖』の構造

単行本で6巻からなる長編小説『菜の花の沖』(文藝春秋)の前半では、淡路島の寒村に生まれた嘉兵衛が兵庫に出て樽廻船に乗って一介の炊(かしき)から身を起こして船持ちの船頭となり、航路を切り開き大船団を率いて、折から緊張の高まりつつあった北の海へと乗り出していくまでが描かれている。

そして、後半では厳しい封建制度の中で行動の自由を得、菜の花から作る菜種油を販売して財を成し、虐げられていたアイヌの人々と共に対等な立場で貿易を行い、箱館の町を発展させた嘉兵衛が一介の商人でありながら、戦争の危機を救うという重大な役割を果すまでが描かれるのである。

b.高田屋嘉兵衛(1769~1827)とその時代

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(高田屋嘉兵衛 (1812/13年)の肖像画。画像は「ウィキペディア」より)

『菜の花の沖』は主人公が生まれた淡路島の形状とその位置の描写から始まる。

「島山(しまやま)は、ちぬの海(大阪湾)をゆったりと塞(ふさ)ぐようにして横たわっている。…中略…わずか一里のむこうに本土の車馬の往来するのが見え、その間を明石海峡の急流がながれており、本土に変化があればすぐさま響いてしまう」(1・「都志の浦」)。

そのような例として「この話の主人公がうまれるすこし前」に、「六甲山山麓の住吉川、芦屋川などの急流ぞいに水車工場がうまれ」たと記した司馬氏は、「それまでは菜種油は高価なものであったが、この大量生産によってやすくなり、さらにはこの油を諸国にくばるために兵庫や西宮(にしのみや)あたりの海運業が栄えた」と説明している。それは貧しい農家の子供だった高田屋嘉兵衛が将来、海運業者として飛躍することになる背景でもあった。このことにより司馬氏は高田屋嘉兵衛がこの時期に忽然と現れた「英雄」ではなく、時代の流れのなかから生まれてきたことを明らかにしているのである。

c.高田屋嘉兵衛の自然観

司馬氏は兵庫の回船問屋堺屋で働き始めた頃の嘉兵衛についてこう記す。「この時期、嘉兵衛はおぼろげながらかれ自身が生涯をかけてつくりあげた哲学の原型のようなものを、身のうちにつくりつつあった。そのことは、かれの気質や嗜好と密接にむすびついている。潮汐や風、星、船舶の構造と同じように、嘉兵衛は自分の心までを客観化してしまうところがあった」。それは「つまりは正直ということであった」とし、「自分と自分の心をたえず客体化して見つづけておかねば、海におこる森羅万象(しんらばんんしょう)がわからなくなる、と嘉兵衛はおもっている」(1・「兵庫」)。

そして、「みずから持船を指揮し、松前(北海道の藩領地域)にのりだした」彼に次のように語らせている。「海でくらしていると、人間が大自然のなかでいかに非力で小さな存在かということを知る、という。海の人間のなかで、陸にいるような増上慢や夜郎自大のものはおらんよ、といった。陸には、追従で立身したり、人の褌ですもうをとって金儲けをする者がいるが、海にはおらんな。真に人間というものが好きになり、頼もしくなるというのも、海じゃな」。

この言葉はなにゆえ、なぜ高田屋嘉兵衛が当時奴隷のように虐げられていたアイヌの人々をも人間として接することができたかや、ロシア人との交渉においてなぜの彼の言葉が説得力を持ち得たのかをも明らかにしていると言えよう。

こうして「潮」と人間の観察を踏まえつつ、黒潮の流れにのって北海道にまでのりだした高田屋嘉兵衛の活躍を通して、そのような人物を生みだし得た「江戸文明」の意味を明らかにするのである。

d.高田屋嘉兵衛の蝦夷観と江戸時代の新しい知識人

注目したいのは、司馬氏が「江戸期はふしぎな時代であった。鉄の箱のように極端な鎖国社会を形成しながら、その箱のなかのひとびとの知的活動は、つねに唐(中国)と阿蘭陀(オランダ)の二つの異文化を日本と対置しながら物を考えるという癖があった」(3・「春信」)とし、江戸後期には「文明」と「野蛮」に分けて、「低地」をさげすむのではない工藤平助や高橋三平など第三の「知的なグループがすでに江戸に存在していた」ことにも注意を向けている(3・「箱館」)。

e.江戸時代の商取引と江戸時代の先進性

第四巻で司馬氏は、高田屋嘉兵衛が波濤を超えてクナシリ航路を開拓し、エトロフの地域での商業権を得て、商人としても飛躍する時期を描いている。江戸時代の商取引に言及した網野善彦氏も「遅れていたら商業や取引を自分たちの用語だけでやれる」はずはないと説明して、「『遅れている日本』というイメージは、明治政府によって作り出された虚像だ」と説明している。

 

Ⅱ.高田屋嘉兵衛の説得力――「江戸文明」の独自性

a.高田屋嘉兵衛とゴローニン(以下、司馬氏の表記に従う)の屈辱

司馬氏は嘉兵衛が捕らわれた時の状況をこう記している。「自由を奪われた嘉兵衛は、怒りのために全身の血が両眼から噴きだすようであり、それ以上にこの男を激昂させたのは、ロシア人たちがかれを縛ったことである。…中略…嘉兵衛の自尊心にはこれがたまらなかった。『縛るな』 ねじ伏せられながら、叫んだ」。

注目したいのは、司馬氏がここで高田屋嘉兵衛のこのシーンを描く前に、日本人が「一国の艦長を罠にかけ、けもののように縛り」あげたことや「囚人にとって苦痛をきわめた」、「逮捕・護送」についても詳しく記していたことである。

ここには「歴史的な事実」を一方の視点からだけ見るのではなく、他の視点からも描くという司馬氏の比較文明論的な視野がよく現れていると思える。

b.近代の「奇怪な国家心理」について

ゴローニンが江戸幕府に捕らえられるようになった時代的な背景を説明しつつ、司馬氏は、「 『国家』という巨大な組織は近代が近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。とくに、国家間が緊張したとき、相手国への猜疑と過剰な自国防衛意識」が起きるだけでなく、「さらには双方の国が国民を煽る敵愾心の宣伝といった奇怪な国家心理」も働くという分析を行っている。

c.高田屋嘉兵衛の決意

その一方で、司馬氏は高田屋嘉兵衛が「このままゆけば国家間の戦争になると憂えていたかもしれない」と記し、彼が『人質になった以上は、両国の和平のために、なんとかよき方向に持ってゆきたいのが心底です』と記したことに触れて、これは「一介の町人身分にすれば、江戸期の身分制的なふんいきから高く跳躍した物言い」であり、「この決意をした瞬間、船頭の嘉兵衛は歴史の上に、新しいあしあとを穿った」と記している。

d.高田屋嘉兵衛とナポレオン

 司馬氏が『坂の上の雲』において主人公の一人とした俳人の正岡子規は若い頃に書いた「筆まかせ」で比較の重要性を強調していた(近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年が、それは夏目漱石の作品ばかりでなく、『菜の花の沖』にも見られる。ことに重要と思われるのは、嘉兵衛がロシア側に捕らえられたのと同じ年にロシアに侵攻してモスクワを占領したナポレオンの両者を比較して司馬氏が、「嘉兵衛はナポレオンと同じ年にうまれている」ばかりでなく、「両人とも島の出身だった」と記していることである。

さらに嘉兵衛が「欧州ではナポレオンの出現以来、戦争の絶間がないそうではないか」と語り、「扨々(さてさて)、恐敷事候(おそろしきことにそうろう)」と批判したことに注意を促した司馬氏が「ただ一人の友人しか持てなかった」ナポレオンと、「嘉兵衛の事情は異なっている」と続けていることを考慮するならば、ここでは日露両国の衝突の危険性を平和的に解決した高田屋嘉兵衛と武力によるヨーロッパの統一を目指したナポレオンの生き方とが比較されているのは明らかだろう。

e.高田屋嘉兵衛の上国観と「国政悪敷国」

司馬氏は嘉兵衛が、「わが国は軍事については、敵国の物を奪いとることは大法にて禁制になっています」と言い、言葉を継いで「日本と当国の軍制のちがいは、日本の場合、どういう怨みがあっても、自国を固めることはあっても、不法に他国を攻めるようなことがない」と伝えたと記して、「こういうことを大見得でもって言えたのは、江戸期の日本だったればこそであったろう」と続けた。

嘉兵衛がリコルドに「国政が悪い国家とは何か」という主題について、「愛国心を売りものにしたり、宣伝や扇動材料につかったりする国はろくな国ではない」と説いたとし、ここで「『国政悪敷国』というふうにやわらかい表現をつかっている」ことに注意を促した司馬氏は、「下国とか悪国ということばをつかわないのは、国に善悪などはなく、国政がいいか悪いかだけだという考え方が嘉兵衛にあるからだろうか」と記した。

f.『坂の上の雲』における戦争の批判

『坂の上の雲』において司馬氏は一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定していたが、ここには戦争を絶えず生み続けた近代ヨーロッパの「国民国家」への鋭い批判を見ることができる。

実際、すでに『竜馬がゆく』において明治7年の台湾出兵や明治10年の西南戦争などでは利益をあげ、巨万の財を築くことになる政商・岩崎弥太郎を批判的に描いていた司馬氏は、『坂の上の雲』では、外国からの借金によって軍備の拡大と近代化を行ったことや戦争と経済の関係をこう分析していた。

「日本の戦時国民経済がほぼ平時とかわらなかったのは、主として外国の同情によって順調にすすんだ外債のおかげであった。結果としての数字でいえば日露戦争は十九億円の金がかかった。このうち外債が十二億円であったから、ほとんどが借金でまかなった戦争といっていい」(五・「奉天へ」)。

夏目漱石は日英同盟の締結に沸く日本をロンドンから冷静に観察していたが、司馬氏も『坂の上の雲』において「自国の東アジア市場を侵されることをおそれ」たイギリスが同盟国の日本に求めたのは、「ロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかって、大石をかかえてその前にとびこんでくれる」ことだと書いていたのである(七・「退却」)。

一時的な景気にはつながっても長い目で見れば、国家経済を破綻へと導くことになる戦争や兵器の輸出などの問題をこの記述は鋭く指摘していたといえる。

g.『本郷界隈』における『三四郎』の考察

夏目漱石は『三四郎』で日露戦争後の日本を厳しく批判した広田先生の言葉を描く前に、一人息子を日露戦争で失った老人の「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」という嘆きを描いていた。司馬氏は『三四郎』のこの文章を受けて「爺さんの議論は、漱石その人の感想でもあったのだろう」と書き、日本が「外債返しに四苦八苦していた」ために、「製艦費ということで、官吏は月給の一割を天引きされて」いたことに注意を向けている(『本郷界隈』)。

 

Ⅲ.「後期江戸時代」の再評価と新しい文明の可能性

a.ゴローニンの日本観

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(『日本幽囚記』の著者ゴロヴニーン。図版は「ウィキペディア」より)。

司馬氏は囚われの身であったゴローニンが、「『日本人こそ世界で最も凶悪な野蛮人だ』と、帰国後も叫びつづけることもできたし、ふつうの精神ならそのようにしたところで当然ともいえる」と記した後で、そうは記さなかったゴローニンの偉大さに司馬氏が触れている。

実際、ゴローニンは『日本幽囚記』で日本の教育を、「一国民を全体として他の国民と比較すると、私の意見では、日本人は天下で最も教育のある国民である。日本には読み書きのできない者や、自分の国の法律を知らない者は一人もいない。日本では法律はめったに変更されない」と絶賛している。

彼がイギリスで教育を受けていることを考えるならば彼の意見は重たく、ヨーロッパ文明の絶対視を越えて比較文明論的な視点から歴史を見ようとする新しさがある。

b.ケンペルの「鎖国論」

1690年にオランダ商館の医師として長崎に着任し、将軍綱吉にも三度の拝謁を許されたケンペルも「日本国民のやり方は全く背理の行為である」と一応は鎖国を批判しつつも、「日本人の模範例に」ならって各民族が鎖国をした場合には、不毛の土地を開墾できるだけでなく、「学問、技術、道徳の分野ではより更なる熱意と精勤を以て自己を陶冶し」、「子供の教育、家事全般には益々熱心に身を入れ」、「国民として最も幸福な状態の頂点に近づいてゆく」と絶賛していた(小堀桂一郎『鎖国の思想』中公新書)。

c.ヴォルテールの評価

江戸時代を遅れた時代とする見方になれた私たちには不思議な記述だが、重要なのはここで彼が「戦乱によって家屋や諸所の都市が破壊されたり、人間が殺戮され、国土が荒廃に帰した」西欧と比較していることであろう。上垣外憲一はケンペルの書物を読んだヴォルテールが「日本人は世界で最も寛容な国民である」と記していることに注意を払い、「同時代の西洋諸国が戦争に明け暮れていた」ことと比べれば、驚くべく永続的な平和を享受していたことも、評価されねばならない」と記している。

d.江戸時代後期における「公益」の感覚

この意味で注目したいのは司馬遼太郎氏が『菜の花の沖』において、自分の発明を公開した町人の発明家である工楽松右衛門の言葉として、「人として天下の益ならん事を計らず、碌(ろく)々として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にもおとるべし」という激しい言葉を紹介して、「この公益の感覚は、この時期よりもずっと後期の町人社会になるとよほどひろがってくる」と書いていることである(2・「松右衛門」)。

しかも、司馬氏は「嘉兵衛は商人(あきんど)というより仁者だ」言った幕府の役人高橋三平の言葉を紹介しながら、「たしかにそうであったろう」と続け、「商利や生産上の利益」を「息せき切って」追求し、「また使っている人間たちを利益追求のために鞭打つようなことをした場合、当人も使用人も精神まで卑しくなってしまう」(5・「嘉兵衛船」)と書いた。

つまり、最近になって強調されるようになった「公益」という思想は、すでに江戸後期の町人社会で成立していたのであり、それは「自己中心主義」や「自店中心主義」のみならず、「国益」を前面に出した最近の「自国中心主義」をも批判できるようなより厳しい形で成立していたと思える。

e.江戸時代における「軍縮と教育」

川勝平太氏も「江戸時代の日本人」が、「軍縮と教育とを柱とする『徳治主義』によってゆるやかな経済成長」を実現したことに注目して、「軍事にではなく、教育に投資をし、知的水準をあげることは、自国のみならず、地上のどの国においても圧制者の出現を許さぬ環境づくりになる」とし、「野蛮(戦争、環境破壊)の克服こそ文明の文明たる所以である」と強調している(『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考』)。

 

結語 日本の伝統に基づいた「積極的な平和政策」の必要性

残念ながら、今年の9月には「安全保障関連法」が「強行採決」されて、原爆の悲惨さを踏まえたそれまでの日本の「平和政策」から「武器輸出」の推進へと舵が切られた。

しかし、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏は、高田屋嘉兵衛を主人公としたこの長編小説で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であり、この理念を広めていくことが悲惨な「核戦争」から世界を救うことになると描いていたように思える。

 

参考文献

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高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年。

柴村羊五『北海の豪商 高田屋嘉兵衛』亜紀書房、2000年。

黒部亨『高田屋嘉兵衛』神戸新聞総合出版センター、2000年。

須藤隆仙『函館の歴史』東洋書院、1980年。

高田屋嘉兵衛とその時代については年表3、「司馬遼太郎とロシア」関連年表、参照。

 

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