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作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観
はじめに
文芸評論家・小林秀雄(1902~1983)のドストエフスキー論からは高校生の頃に強い影響を受けたが、小林秀雄の『白痴』論をドストエフスキーのテキストと具体的に比較しながら読んだ時に、客観的に分析されているように見えたその解釈が、きわめて情念的で主観的なものであることに気づいた。
フランス文学者・寺田透(1915~1995)の『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房、1978年)については、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)で簡単に触れたが*1、自分の感性によってドストエフスキーのテキストを深く読み込むことで、ドストエフスキー作品の独自な解釈を行った小林秀雄の方法と同じように研究書には依拠せずに書きたいと考えていたために、寺田透の小林秀雄観については手つかずのままであった。
ようやく調べ初めてみるとすぐれた卓見が随所に見つかった。私自身はフランス語にうといので、翻訳の問題に深く立ち入ることはできないが、小林の翻訳や文体についてだけでなく、『ゴッホの手紙』などの伝記的研究の問題点についても鋭い分析を行っていた寺田透の記述を年代の流れに沿って考察することにより、小林秀雄のドストエフスキー解釈の問題に迫りたい(本稿においては、敬称は略した)。
1、文体の問題と伝記的研究
1951年に発表された「小林秀雄論」で、小林の最初の評論集が上梓された時は、「中学四年の末、高等学校の入学試験準備に忙しい最中だった」と記した寺田は、「まず僕を魅したのは、かれの自我の強烈さだった、ということが今になれば分る。僕はかれの思想に食い込まれるというより、かれの精神の運動に眩惑されたというべきだ」と書いた*2。そして、「たしかにかれはその文体によって読者の心理のうちに生きた」と強烈な文体からの印象を記した寺田は、「いわば若年の僕は、そういうかれの文体に鞭打たれ、薫染されたと言えるだろう」と続けていた。
しかしその後で、小林のランボーの訳詞などに徐々に違和感を募らせたことを記した寺田は、伝記的研究の『モーツアルト』において「二つの時代が、交代しようとする過渡期の真中に生きた」とモーツアルトを規定し、「彼の使命は、自ら十字路と化す事にあった」と記していた小林自身は、「みずから現代の十字路と化すかわりに、現代の混乱と衰弱を高みから見降し、過去をたずね、そこからかれ迄通じている歴史の脈路を見出すことに、かれの資質にかなった生き方を見出す」と分析して、両者の違いを明らかにした。
さらにここではそのような解釈の方法は、小林が「対象を自分に引きつけて問題の解決をはかる、何というか、一種の狭量の持ち主であることをも語っている」と記されているが、それは小林の『ゴッホの手紙』に対する批判にも通じている。
1953年に書かれた「ゴッホ遠望」で寺田は、「批評家小林秀雄には多くのディレンマがある。そのひとつは芸術家の伝記的研究などその作品の秘密をあかすものではないと、デビュの当初から考え、…中略…それを喧伝するかれが、誰よりも余計に伝記的研究を世に送った文学評論家だということのうちに見出される」と指摘しているのである*3。
さらに寺田は、小林秀雄が度々伝記を調べて評伝を書いている理由を、「そこにあるのは、評伝が芸術作品の代用をつとめうるという仮設、といっては余りにも無態だが、巧みに書かれた評伝は、その評伝の主人公である人間の芸術作品によって惹起される感動を近似的に再現しうるのじゃないかという願望である」と想定している。
実際、小林秀雄の生活と初期の作品を小林的な方法で詳しく考察した文芸評論家の江藤淳も、伝記的研究の『小林秀雄』でE・H・カーのドストエフスキー論と比較しながら、「いはばカアの主人公はペテルスブルグの街路を歩いているが、小林のドストエフスキイは彼自身の心臓の上を歩いている」と書き、『白痴』の最後の場面の解釈について「ことに小林が『滅んで行く』三つの生命に、自分と中原中也と長谷川泰子との、『憎み合うことによつて、……協力する』あの『奇怪な三角関係』を投じて見ていることは疑いをいれない」と解釈している*4。
このような江藤の指摘は、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』と『白痴』論との関連をも示唆していると思える。すなわち、「『白痴』についてⅡ」では、ムィシキンの癲癇という病や、主人公とナスターシヤをめぐるロゴージンとの三角関係などに焦点をあてて解釈されるとともに、やはり癲癇という病を持ち愛人との三角関係も体験していたドストエフスキーとの類似性に注意を促していたのである。
一方、小林の伝記的研究へのこだわりを指摘した寺田は、その後で「それはそうとゴッホに対してこの小林のやり方はうまく行っただろうか。/世評にそむいて僕は不成功だったと思っている」と続けていた*5。
そして、「これらのゴッホの作品を叙する小林秀雄の論鋒は奇妙に変転し、評価のアクロバットと言いたいような趣きを呈する」と指摘した寺田は、「小林流にやったのでは」、「絵をかくものにとって大切な、画家ゴッホを理解する上にも大切な考えは、黙過されざるをえない」と指摘していた。
この批判は小林秀雄の『白痴』論にも当てはまるだろう。拙論「長編小説『白痴』における病とその描写」でも指摘したが、家族関係を解体して「孤独な個人」に焦点をあてた小林の解釈では、長編小説に描かれている複雑な人間関係が意図的に省略されているために、長編小説全体の理解に重大な「歪み」が生じているのである*6。
さらに注目したいのは、ルナンの『イエス伝』がゴッホに与えた強い影響に言及した小林が、「ルナンが『キリスト伝』を書いたのは、ドストエフスキイが、シベリヤから還つて来て間もない頃である。ドストエフスキイが、この非常な影響力を持った有名な著書を読んだかどうかは明らかではないが、読んだとしても、恐らく少しも動かされることはなかったであらう」と断言し、「恐らく、美しい宗教画など、彼には何んの興味もなかつたのである」と続けて、「無気味なものや奇怪な現象に強い興味を示したムィシキン」と作者との類似性を強調していたことである*7。
ゴッホとドストエフスキーとを比較しつつ描かれているこれらの記述は、映画監督を目指す前にはゴッホやセザンヌのような画家になることを目指していた黒澤に、強い反発心を起こさせたと思える。
なぜならば、黒澤明監督は木下恵介監督により1948年に公開された映画《肖像》のシナリオで、『白痴』のナスターシヤと同じような境遇のミドリを主人公とし、老画家から頼まれて肖像画のモデルとなったミドリに、「私ね、じっと座ってその画描きの綺麗な眼でじっと見られていると、なんだか、澄んだ冷い流れに身体をひたしている様な気がするの」と告白させていたからである。こうして、黒澤はこの脚本で画家の家族にも励まされて苦しくとも自立しようとするミドリの姿を描き、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることを強調していたのである*8。
映画《夢》を論じた拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の第4章では、この映画が『罪と罰』における夢の構造との驚くような類似性があることを示して、そのような類似性が生じたのは小林秀雄の『罪と罰』観を黒澤明が批判的に考察し続けたことの結果ではないかと記した*9。
さらに、ゴッホの絵の展覧会場で絵に見入っていた主人公の「私」が絵の中に入り込み、ゴッホと出会うシーンが描かれている第五話「鴉」が挿入されているのも、小林秀雄のゴッホ観への批判が根底にあったかではないかという想定をしていた。「ゴッホ遠望」における寺田の考察は、私のこの想定を支える有力な根拠となりうると思える。
この考察に続いて1955年に発表した「小林秀雄の功罪」という題のエッセーでも寺田透は、「ゴッホにとっては、その内部に蠢(うごめ)き、かれをつき動かし、かれに静止を許さなかったその情熱的な、というより宿命的な生の規範が、小林氏にとっては、いわば箴言(しんげん)にすぎなくなっているのを見た」と小林の『ゴッホの手紙』を痛烈に批判していたのである*10。
2、「自意識過剰」という訳語――翻訳と解釈
「その頃のヴァレリー受容」と題された1983年の日本フランス語フランス文学会関東支部春季総会の講演で、小林秀雄の『テスト氏』の翻訳が出版された1932年に、「僕は第一高等学校の文科丙類の生徒で、二年生」であったと語った寺田透は、当時は「ひどい就職難の時代で」、「こういう閉塞状態が自意識、自己意識の問題を発達させた」こともあり、
「それで小林秀雄氏の訳したヴァレリーの『テスト氏』の中の訳語、自意識過剰というようなものも、たちまち行き渡り、時代の、少なくも青春にかかわる一般的命題になった」と当時のヴァレリー受容と時代との関わりを語った*11。
その後で小林秀雄が「exces」*という原文を「過剰」と訳していることにふれて、「過剰といいますと、だいたい量的に多すぎるということがその日本語としての語感」であるのに対し、「excesという言葉は」、「分量の問題よりも程度の問題になってくる。平面的にひろがる多さではなく、高く、強く、上にのびる大きさということになる」と説明している。
そして寺田は、『テスト氏』の主人公が「そのころの青年たちが抱えていた自意識過剰とは違う、もっといわば能動的、積極的な、自分をふたりとない強力な存在として意識するときの誇り高い自意識に苦しんでいた」ことを指摘し、「それは批評家として乗り出して行こうとしている小林さんの自意識とはずいぶん性格のちがうものだったと考えていいでしょう」と続けて、原文と訳語のニュアンスの違いに注意を促していた。
この指摘から思い起こされたのは、小林秀雄が「『白痴』についてⅠ」で「『白痴』は一種の比類のない恋愛小説には相違ないが、ムイシュキン、ナスタアシャ、ラゴオジン、アグラアヤの四人の錯雑した関係のうちに、読者は尋常な恋愛感情、恋愛心理を全く読みとる事は出来ない」と断定し、ことにナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことである*12。長編小説『白痴』にプーシキンの作品からだけではなく、フランスの『椿姫』や『レ・ミゼラブル』からの強い影響と、独自な受容を見ていた私はこのような解釈にたいへん驚かされた。このように規定されてしまうと、小林秀雄のドストエフスキー論の読者は、ナスターシヤの内に精神的な自立を目指した女性や、彼女にふさわしい男性になろうとしてプーシキンの作品を読み、ロシア史を学ぼうと努力していたロゴージンの可能性を読み落とすことになると思われる。
さらに、主人公の「善」と「悪」の意識に関わる重要な箇所を小林秀雄が意図的に誤訳したと指摘している寺田の次の指摘は小林秀雄のドストエフスキー論の厳しい批判ともなっている。少し長くなるが引用しておきたい。
「こういう、より情緒的、より人間臭く、そして、じかに生理にはたらきかけてくる表現の方向をとる小林さんの傾向は『テスト氏』の翻訳の中にも頻繁に見出され」と書いた寺田透は、「『善と縁を切る』といった訳語でなければならない」、「s’abstraire de」という原文を、「『善に没頭する事はひどく拙い』と小林さんのように訳しては、話が反対になってしまいはしないでしょうか。/小林さんはこういった間違いを不注意でやったのではないと僕は感じるのです」と記して、こう続けている*13。
「善を断つにはひどい苦渋を伴うが、悪を断つことは楽々とできるテスト氏の性分を暗示した対句ととらなければなりませんでしょう。/あとのほうを小林さんは『悪には手際よく専念している……』と訳していますが、こうなると、ある人間解釈にもとづく、積極的な誤訳としかいいようがありません」(太字は引用者)。
そして「小林秀雄氏の死去の折にⅢ」という副題を持つ講演記録では、「小林さんは良心の導き手である宗教人といったものを、俗物ときめてかかったのではないか」という深刻な疑問も記されているのである。
寺田が『テスト氏』で感じた疑問は、主人公には「罪の意識も罰の意識も」ないと解釈して、ラスコーリニコフの精神的な「復活」を描いた『罪と罰』のエピローグが読者のために書かれたと小林が解釈していたこととも深く結びついているだろう。
3,「後世のために自分の姿を作つて行くひと」
1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談で、原爆の発明と投下について、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語った小林秀雄は、「高度に発達する技術」の危険性を指摘するとともに、「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と強調していた*14。
問題はそのように時代を先取りするような倫理的な発言をしていた小林が、原発が国策となると沈黙していただけでなく、さらに、「国策」としての戦争の遂行を擁護するような戦前に書いた文章を全集に収録する際に改竄したり削除していたことである。
一方、寺田透は『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、次のように明記していた*15。
「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。
小林秀雄の文芸評論は今も高く評価されているように見えるが、寺田の小林評は日本における文学の意義を再構築する上できわめて重要だと思える。
注
*フランス語の「exces」にアクサン・グラーヴが付けられれないので、そのままになっている。
*1 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、155頁。
*2 寺田透「小林秀雄論」『小林秀雄集』(『現代日本文學大系』60)、1969年、427頁。
*3 寺田透「ゴッホ遠望」、前掲書『小林秀雄集』、438頁。
*4 『江藤淳著作集』第3巻、講談社、1977年、137~146頁。
*5 寺田透、前掲論文「ゴッホ遠望」、439~441頁。
*6 高橋「長編小説『白痴』における病とその描写――小林秀雄の『白痴』論をめぐって」『世界文学』117号、2013年参照。
*7 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、186~187頁、277頁。
*8 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年、34~38頁。
*9 平野具男氏の精緻な「書評的短見」では、哲学的な議論が多い第4章については「論の運びが突っ込みと展開にやや物足りない観」があるとの厳しい指摘とともに非常に温かい評価を頂いた。『世界文学』120号、2014年、100~108頁。
*10 寺田透「小林秀雄の功罪」、前掲書『小林秀雄集』、441~448頁。
*11 寺田透「その頃のヴァレリー受容――小林秀雄氏の死去の折にⅢ」『私本ヴァレリー』、筑摩叢書、1987年、58~63頁。
*12 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、94~95頁。
*13 寺田透、前掲論文「その頃のヴァレリー受容」、74~77頁
*14 『小林秀雄全作品』第16巻、新潮社、2004年、51~54頁。
*15 寺田透「小林秀雄氏の死去の折に」『文學界』、1983年、70頁。
(『世界文学』第122号、2015年12月、96~100頁)
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「陶酔といふ理解の形式」と隠蔽という方法――寺田透の小林秀雄観(2)
「事実をよむ」ことと「虚構」という方法――寺田透の小林秀雄観(3)
(2016年2月1日、関連記事一覧を追加。2017年11月9日、書影を追加))