「ドストエフスキーと世界文化」と題する国際会議が、1996年11月11日から17日まで、モスクワ大学文学部、ロシア・文化省、国立文学博物館およびサンクト・ペテルブルクのドストエフスキー博物館の四者の共催で行われた。
ドストエフスキーの誕生日に当たる11日には彼のためのミサやドストエフスキー博物館前の作家の像への献花が行われた。この後に博物館の見学や、ドストエフスキー関連のモスクワ見学が組まれ、文学博物館における「ドストエフスキーの世界」と題する展示会の開会式も行われた。
モスクワ大学で行われた12日の開催式に際しては、カターエフ教授の司会で文化省の大臣や修道院長が祝辞を読み上げた他、ドストエフスキーの偉大さをたたえたエリツィン大統領の病院からのメッセージも伝えられた。「ドストエフスキー協会」会長のヴォルギン氏は、外国の諸都市やサンクト・ペテルブルクなどで行われてきたドストエフスキーの国際会議が、初めて作家の生まれたモスクワで行われることの意義を強調した。
参加者の一番の注目を引いたのは、プログラムには載っていなかったソルジェニーツィン氏が壇上に呼ばれた時であった。氏はその短い講演で「ドストエフスキーは、アレクサンドル2世の暗殺の前に亡くなったが、もし彼が生きていたらそのニュースをどのように感じただろうか」と問いかけたあと、「もし彼が、現在のロシアの混乱や貧困を見たらどう感じるだろうか」と言葉を継いで、ロシアの現状を厳しく批判した。そして「ドストエフスキーはロシアの作家や哲学者のうちで、未来への洞察力の最もある予言者であった」とし、彼の作品をさらに注意深く読む必要があることを参加者に訴えた。
翌日の『СЕГОДНЯ』紙は、ソルジェニーツィンの発言に関連して、現在、ロシアでは『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』などとともに『虐げられた人々』が当面の緊急課題となっていると報じていた。実際、ロシアの政治的経済的な混乱は、この国際会議にも暗い影を落としていたようだ。
その一つは本場ロシアでの開催にもかかわらず、治安の問題のせいだろうが、モスクワでは国際ドストエフスキー学会(IDS)の主立ったメンバーをほとんど見ることが出来なかったことである(15日から行われたサンクト・ペテルブルクの会議には、イギリスのキリーロワやシンプソン、アメリカのボグラードなどの研究者が参加した)。また、移動の時間などに余裕がなかったため、外国からの参加者は会議の最中にも、宿泊や列車の手配などの手続きをせねばならぬ事態も起きた。
他方、ロシア人報告者も欠席や新たな発表者の挿入などの変更が目立った。このためプログラムに記されたことがらが大きく異なり、またレジュメの書かれたプリントなども配られなかったので、変更内容が分からないような状態にもおちいった。
会議の終了後にあるロシア人教授にこのような混乱の理由をたずねると「たとえば、私の月給はわずか100ドルなんですよ」との一言が返ってきた。多くの参加予定者にとっては旅費を捻出すること自体がすでに困難だったのである。
こうした状況を考えれば、2都市にわたり130名近い発表者がいた国際会議がこれといった大きな混乱もなく終了したこと自体が成功と言えるだろう。先に挙げた研究者以外では、ルーマニアのコヴァチ、ベラルーシのレナンスキイ、さらにフランスのアレンなどの各氏の他にもドイツ、イタリアさらにクロアチアの学者の姿も見えた。日本からは糸川紘一氏が「『罪と罰』におけるパラドックス」と題する報告を行い、私は「ドストエフスキーとオストロフスキー」という発表を行った。ロシア側ではトゥニマーノフ、ザハーロフ、ステパニャン、ヴェトローフスカヤ、サラースキナといったIDSへの常連の参加者が自ら発表を行う一方、適切な司会もこなして議論を盛り上げた。興味深い発表も多かったが、ここでは議論を呼んだいくつかの発表を中心に紹介することにしたい。
ポーランドのラザリ氏のテーマ「ソボールノスチについて」は、これまでのIDSでのドストエフスキーとロシアのナショナリズムの問題の考察の続きといったもので特に目新しいものではなかった。しかし、IDSでは通常激しい批判と拍手が相半ばする氏の発表だが、「ロシアの民衆の主な特質についてのドストエフスキーの考察」や「ロシアの理念」といった発表が続いたセッションでは明らかに孤立しており、このようなテーマを客観的に論ずることの難しさを感じた。
この点で興味をひいたのは、ドストエフスキーの作品をカトリックの論理的な言語であるフランス語に訳す際の様々な困難について朴訥に語り、聴衆の共感を呼んだ翻訳者の発表である。彼はフランス語の文語では単語の繰り返しなどが基本的には許されず、またラテン語の影響が強かったために<yбивец>というような用語がフランス語の口語に定着していないなどその難しさを指摘するとともに、最近、直訳に近い訳語でなされた劇が成功を収めていることをも報告して、ギリシア正教の理念を伝えるためには正確なロシア語訳の必要なことを強調した。
レールモントフやゴーゴリの場合にも言及しながら、ドストエフスキーの作品における「家と道」のかかわりについて語ったクレイマン女史の論理的な発表に対しては、家としての修道院をどのように考えるかとか、あまりにも抽象的なアプローチの仕方ではないかなどの質問や批判が相次いだ。しかし、女史は「私に手袋を投げたい人には、休憩の時間に対応します」と冷静に応じた。
おそらく最も議論を呼んだのは、サンクト・ペテルブルクに持ち越されたベローフ氏の発表であっただろう。氏は来年に刊行される予定の自著の『ドストエフスキー辞典』について語りながら、故フリードレンデル氏などが編集した30巻全集の欠点などを強い口調で厳しく批判した。このため司会者は感情的な議論は避けて下さいという前提で質問を受け付けたが、やはり議論は白熱したものとなった。
会議に併せて、期間中にモスクワドラマ劇場では脇役に光をあてるという意欲的な演出をした《白痴》の3部作が3夜にわたって上演された。サンクト・ペテルブルクでは普通の住宅の1室を改造した場所でごく少数の観客を対象に《おかしな男の夢》が上演された。この作品の重要性についてはいくつかの発表も言及していたが、狭い空間を利用して見事な出来であった。
なお、IDSの昨年の国際会議の後に日韓の発表論文集が北海道大学スラブ研究センターから刊行されたが、ロシアの「ドストエフスキー協会」と日本の「ドストエーフスキイの会」の共編という形で、それらの論文が今回発行された論文集『ドストエフスキーと世界文化』の第8集にロシア側の論文とともに掲載され、参加者の強い関心をひいた。こうした試みが今後も続けられることを期待したい。
(本稿では肩書きは省略し、HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部変更するとともに、文体レベルの訂正を行った)。
「国際交流ニューズレター」(日本ロシア文学会国際交流委員会、No.8、1996年)