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ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す(下)

ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す(下)

(6)「逆効果の“白書”」――ソ連型社会主義の問題点の考察

タシケントでの会議を終えた後に、モスクワに一度戻った堀田はこの出兵占領問題に関する公式の意見を聞いておこうと考えて、作家同盟の幹部中でも最古参の詩人アレクセイ・スルコフ氏との会見を申し込んだ。

「革命のときの内戦とスペイン戦争と祖国防衛戦争」の三度の戦争を経験していたスルコフは、出兵がどうしても必要であり「ソヴエトの兵士たちは、反革命の攻撃に対して抵抗をしてはいけないという命令をうけていたので、戦車が焼かれて、そのなかで黙って焼け死んでいったものさえが出た……」、「ここに(胸に)苦痛をもって、兄弟国へ出兵をせざるをえなかったのである。そのことをどうか了解してもらいたい」などと一時間以上にわたる熱弁をふるった。「その人自身の誠心誠意のこもった」弁明がそのまま記されている。

注目したいのは、この出兵によってサルトル、ボーボアール、アラゴン、バートランド・ラッセル卿やグレアム・グリーンやヘンリー・ミラーなどの多くの貴重な友人を失い、「彼らとの友情を回復するためには、一〇年では足りないかもしれない。二〇年はかかるかもしれない。それは本当に耐えがたいことだ」と認めたスルコフが、「三千万近い犠牲を払わなければならなかった」第二次世界大戦に言及して「しかし第三次大戦はもっと耐えがたい」と続けて出兵を正当化していたことである。

しかも、別れ際に『チェコスロヴァキアでの事件について、事実、記録、報道記事、目撃者の評価』という200頁近い“白書” を渡されたが、それは「党でもなければ、権威のある調査機関でもなく、「ソヴェトのジャーナリストたち」によって編集されたものであり、堀田はそのことに無責任さを感じた。

実際、「この〝白書〟を勉強しながら」読み進めて、「チェコスロヴァキアの人々の苦心と、社会主義更新のための苦痛にみちた試行錯誤の方に」、「心をひかれるものがあった」と記した堀田は、「小国がもたざるをえなかった運命が、大国にも影響を及ぼさないということはありえないのである」とし、その典型的な例として「ヴェトナムがアメリカの運命に対してもった関係であろう」と書いている。

そして、「ソルジェニツィンの検閲廃止の要請は、ソヴェトの作家同盟の大会では議題にもならなかったのに、チェコスロヴァキアの作家同盟の大会で(!)要請の全文が読まれ、一致しての支持をえている」ことを指摘した堀田は、ソヴェトの作家との「言わない部分の(太字は原文では傍点)多い、異様な会話」では「他に方法もあったろうに、五〇万も六〇万も軍隊をもって行くいとは、ちょっとぼくにはむかしの宗教裁判、異端糾問を思わせるね」と語る。

その言葉は自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』に記されている『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」のテーマと深く関わっており、それはなぜ堀田が『ゴヤ』や『路上の人』、さらに『ミシェル 城館の人』で異端審問や宗教戦争の問題を描くことになるかをも示唆しているだろう。

こうして友人たちのほとんどから、「出兵肯定派も抗議派もチェコスロヴァキアへ行って本当のところはどうなのかを見て来てくれ」と言われてモスクワを出発した堀田は、まずヘルシンキで長年の友人インド人のチャンドラが事務局長を勤める「世界平和評議会」を訪れる。

ここでのチェコスロヴァキア事件についての激しい議論を聞きながら、「“平和”ということばが、どうやらとうの昔に、実態を失ってしまっている」という感想を抱いた堀田は、「“平和”の概念、価値、基準、場所としての有効性をぶちこわすのに、もっとも貢献したものは、やはりアメリカのヴェトナム戦争であったであろうと思う」と書き、帰国して「佐藤首相の、沖縄の問題、または核三原則をめぐる答弁などを読んだり聞いたりしていて、ここでも彼の言うことばなるものをまったく信用することが出来なくなった」と続けている(237)。

検閲が全くないストックホルムではマイクと録音機をかついであらゆる階層の人々に質問をしてまわる若い女の子の性生活が赤裸々に描かれているものの「無邪気な政治映画」で反戦映画でもある「おかしな黄色」というスウェーデン映画を観た堀田は、この映画と比較してソヴェトの『戦争と平和』には「ある頽廃を見る」とも記している。

自分が宿泊した家のあるじの教師がソ連の指導者が皆60歳以上であると高年齢化していることを痛烈に批判し、奴らに「四六歳のドプチェクが考える社会主義がわかるわけはないよ。奴らは不安になったのさ。ジェネレーション・ギャップだよ」と語ったことを記した堀田は、スウェーデンで政権にある社会民主党の代議士の25人が40歳以下であることや、この国の高額所得者の税金が「目の玉がとび出るほどに高いものである」ことも指摘している。

ロンドンでは1994年にアパルトヘイト政策が廃止されることになる南アフリカからロンドンに亡命して解放運動に従事していた青年との会話を記したあとで堀田は、「霧の濃いドーバー海峡をわたる船の上でウイスキーをがぶがぶあおりながら」、「いったいなぜ今度の事でチェコスロヴァキアのことを勉強し、なぜプラハに行ってまで事の正体をつきとめようと自分は決心したのか?」と自問した堀田は、「二、社会主義と自由とは両立しうるものなのか、どうか?」「三、社会主義国が一種の警察国家のようなものに堕して行くことは不可避なのか?」という形で具体的に問い直してこう続けている。

「この第三の設問は、言うまでもなく、なにもとりわけて社会主義とばかりかかわるものではない。第二の設問の社会主義を資本主義ととりかえてもよく、第三の設問においてもとりかえは可能であろう。それは広い意味において近代社会そのものに全体的にかかわるのであって、近代におけるその源流は、たとえばドストエフスキーの『悪霊』中に出て来る人物、徹底的に理論的なシガーレフ(ママ)のセリフ、「無限の自由より発して、無限の専制主義に到達するのだ」ということば、またこれを直接にうけてのカミュのことば、「人は正義を欲するより発して、ついに警察を組織するに終るものだ」(『正義の人々』)というところに帰する、巨大な問題である。」

(7)チェコスロヴァキアの歴史と「全スラヴ同盟」の思想

パリで文献の収集を依頼していた堀田は、出版社の編集者から『存在の耐えられない軽さ』(1984年)を書くことになるミラン・クンデラの小説『冗談』の序文のゲラを読む機会を得た。そこで作家アラゴンはこの作品が1965年には完成していたのに67年末まで出版されなかったことにふれて、「プラハの春」で失脚したノボトニー前大統領を「専制君主」と呼び、さらに今度の事件で彼らは「ことばによる建築によって、かくも長くあの町にのしかかっていた暴君の銅像(注:スターリンの銅像)を再建してみせるであろう」と厳しい言葉をつらねていた。

こうしてアラゴンの序文を紹介した堀田は、プラハに入って現地を観察する前にヨーロッパに虐げられ続けてきたチェコスロヴァキアの歴史にも読者の注意を促している。

すなわち、「この文化の高い少数民族(チェコ人九〇〇万、スロヴアキア人四〇〇万)を、その地理的宿命のゆえに、ヨーロッパのありとあらゆる戦争にまき込みつづけ、オーストロ・ハンガリー帝国に含めさせて、第一次大戦後の一九一八年に、やっとのことで両民族の独立を認めた」が、「一九三八年のミュンヘン協定」で、「英仏両国はチェコスロヴァキアを裏切ってチェコをヒトラーにまかせ、スロヴァキアをヒトラーの保護領にすることを許した」ことを指摘した堀田は、さらにこう続けているのである。

「このヨーロッパの裏切りの、歴史的に見ての第一の事件は、古く一四一五年、プラハ大学の学長であり、宗教改革の先駆者であったヤン・フスが破門され、コンスタンツ公会議に臨むについて、帰国するための安全通行証を公会議から与えられながらも、公会議は約束を裏切って、帰国どころか、弁明もさせずに焚刑に処してしまった」(225-226)。

11月4日に13時30分パリ発のチェコスロヴァキア航空でプラハに着いた堀田は、迎えに来てくれた人から次のような詳しい情報を得る。

「八月二一日に、ソ連軍の戦車が多数入って来たとき、大きなプラカードに、『モスクワ・サーカス再来。ヴアツラフスキエ広場にて公演中。参観無料、ただし生命の保証はせず、また猛獣に餌をやるべからず』」などと書いた学生たちに続いて、ヒッピーたちが「広場で戦車をとめ、とりかこんで議論をし、ソ連兵のなかには泣出したものまでいました。兵士たちのなかにはどこにいるのかをさえ知らなかったのもいました。」

しかし、その後で迎えに来た人はこう続けた「私たちは、かつてヨーロッパの戦争という戦争の全部にまきこまれましたが、チェコスロヴァキアとしては、一度もロシアと戦争をしたことがないのです。戦ったのは、――戦わされたのは、いつでもオーストロ・ハンガリー帝国の一部として強制されたものです(……)とにかく、われわれはスラブ民族の一員なのです。ご存知のようにチェコ語は、スラブ語の一つですし、スロヴァキア語はマジャール語(ハンガリー語)の影響を強くうけています。ヨーロッパは、危機のときにはいつも裏切ります(……)また長い間にわたってドイツ語がプラハの支配階級のことばでした。/いつでも、歴史の上ででも、私たちはいつでも難難(かんなん)の時がくるごと、に、ロシアの方を眺めたものなのです。長きにわたるオーストロ・ハンガリー帝国の支配をうけていたときも、また第一次、第二次大戦のときのことも申すまでもないでしょう。ロシアはどんなときでも敵ではなかったのです。」

さらに、ナチの占領時代に「カレル大学の学生が蜂起して抵抗運動を起し、多くが虐殺されたり収容所に送られたりしたことを悼んで設定された「国際学生行動日」に学生たちと行った討論で、学生はフス戦争のことについてこう語った。「生きのびる、ということが、われわれチェコスロヴァキアの人民にとっては、歴史的にも至上命令なのです。一四一五年にヤン・フスが焚刑に処せられ、フス派の運動が挫折し、一六世紀に入って三〇年戦争、とくに『白山での戦い』に敗れてオーストロ・ハンガリー帝国に編入されて以後、ずっとそうなのです。一息つく暇もなかったのです。」

実際、フス派を異端として十字軍が派遣されたフス戦争(1419〜344)や、白山の戦い(1620)の後ではカトリックへの改宗か国を去るかの選択が求められ、弾圧は言語にも及んでドイツ語が行政や高等教育の場で強制されていたのである。

このようにトルコの支配下にあったブルガリアなど南スラヴの諸民族だけでなく、チェコスロヴァキアなどの西スラヴの諸民族もヨーロッパにおいては虐げられていたので、1848年の二月革命は少数民族としてオーストリア帝国で虐げられていたスラヴの諸民族に独立への機運をもたらし、六月には『チェコ民族史』の著者であるバラツキーが議長となり汎スラヴ会議がプラハで開かれていた(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、193頁。)

一方、ロシアが敗北したものの善戦したクリミア戦争(一八五三~五六)は、同じような状況をオスマン帝国に支配されていたバルカン半島のスラヴ諸民族にもたらし、この戦争の後では、ブルガリアなどで独立運動が高まりを見せるようになった。

それゆえ、一八六七年の五月から六月にかけてモスクワではギリシャ正教の「キリルとメトディウスのスラヴ布教一千年を記念して国外からスラヴ諸民族の指導者たちを招待」して「スラヴ会議」が開かれ、そこにはオーストリア帝国内のスラヴ人や南スラヴ人など八一名が参加し、西欧列強に対抗するためにロシア帝国を盟主とするスラヴ連邦などの構想が話しあわれていた(『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、1~2頁)。

このような時期に西欧文明のみを「進歩」としアジアを「停滞」と規定する近代西欧の歴史観の問題点を鋭く批判して、「弱肉強食の思想」を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」で大国フランスを破って東欧のスラヴ諸国に独立の気概を教えたロシアを盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して対抗すべきだと主張したダニレフスキーの歴史理論に注目が集まるようになった。そして、南スラヴの同胞をイスラム教国の圧政から解放する十字軍を派遣すべきと考えたドストエフスキーも露土戦争の頃にはかつては同じペトラシェフスキー・サークルの会員だったダニレフスキーの理論から強い影響を受けていた。

そして、「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とし、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」とその義理の妹を殺した主人公のラスコーリニコフには、「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言したような小林秀雄の解釈が流行った昭和初期には、日本でも「大東亜共栄圏」の思想が強調されたのである。

(8)チェコスロヴァキア事件からウクライナ危機へ――民族主義的な権力者の危険性

2月22日にロシア軍のウクライナ侵攻が始まってからすでに一か月半以上が経ったが、残念ながら今もロシア軍による市民をも含めた烈しい攻撃が続いている。

一方、日本では祖父の岸首相の古い理念を受け継ぎ戦前の価値観を美化したばかりでなく、プーチン大統領との27回の会談を重ねていた安倍元首相をはじめ自民党タカ派や維新の政治家が、この機会に乗じて声高に軍拡や「核武装」を主張し始めている。さらに、今日も安倍氏が「(ロシアのウクライナ侵攻で)ドイツですら防衛費をGDP比2%に引き上げる決断をした。日本も2%に拡大する努力をしていかなければならない」と語ったことが伝えられている。

一方、チェコスロヴァキア事件が起きた際に三島由紀夫はたびたび「二千語宣言」にも言及した「自由と権力の状況」1968年10月)で、「チェコの問題は、自由に関するさまざまな省察を促した。それは、ただ自由の問題のみではなく、小国の持ちうる、政治的なオプションの問題でもある」とし、「極端に言えば、あそこでは文学と戦車との対立が劇的に演じられたのである」と分析し(119頁)、1970年の「三島事件」では憲法改正のための蹶起を自衛隊に求めたのである。

それに対して堀田善衞はチェコスロヴァキア事件が起きると現地に飛んで老詩人スルコフの「ここに(胸に)苦痛をもって、兄弟国へ出兵をせざるをえなかったのである。そのことをどうか了解してもらいたい」という回答をえていた。その言葉は「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張したダニレフスキーの「全スラヴ同盟」の思想がソ連になってからも影響を持ち続けていた可能性を示しているだろう。かつては盟主国を自認していたロシアは、社会主義になってからは長兄の役を演じようとしていたのである。

しかし堀田善衞は、「“友は選べるが、兄弟は選べない”」という題を付けた第12章では、プラハで出迎えに来てくれた知人に「友人は選べるものだが、兄弟は選べるものではないことを、ほとんど直感したのが若い彼らでした」という苦い失望を語らせることで、この理念がチェコスロヴァキア事件で崩壊したことを示していた。

たとえば、この侵攻の後では堀田も「モスクワから来ていたある日本人特派員氏と食事をしていたとき、思わずこの特派員氏がロシア語を口にすると、『ここではそんなことばを使わないでくれ』」と鋭く告げられていた(268)。

それゆえ、プラハ滞在を終えてモスクワに帰り、「少なからぬ人々に、実情を訊ねられた」堀田は、自分の観察を率直に次のように語った。

「プラハやブラティスラバの人たちはこう言っています。『背中にヒ首あいくち(占領)を突刺しておいて、傷がなおったら(正常化)、そのヒ首を抜いてやろう』とはね。」と。

さらに、スルコフはサルトル、ボーボアール、アラゴン、バートランド・ラッセル卿」などの名前を挙げて、この出兵によって「多くの友人を失った」と語っていたが、そればかりでなくルーマニアやアルバニア、ユーゴスラヴィアからの批判を招き、対立を深めた中国との間には翌1969年に中ソ国境紛争が勃発することになった。

チェコスロヴァキア事件の後で再び東欧が民主化を勝ち取るのは、ソ連のゴルバチョフ政権が新思考外交を打ち出した1989年のことであった。そして、ゴルバチョフはソ連においてもペレストロイカ(再建)やグラースノスチ(情報公開)などの政策を打ち出して、遅ればせながら、チェコスロヴァキアで試みられていた「人間の顔をした社会主義」への改革を行い始めていた。しかし、その矢先に起きたチェルノブイリ原発事故はその歩みを大幅に遅らせたばかりでなく、放射能の被害にもあったバルト三国の離反を招き、保守派によるクーデターを鎮圧したエリツィン・ロシア大統領が権力を握った1991年にソ連は崩壊した。

そのエリツィンによって大統領の退任前に首相から大統領代行に抜擢されたのが、元情報将校のプーチンであり、彼はエリツィンの政治手法を色濃く受け継いでいると思える。

それゆえ、大統領令によって自分を刑事訴追から免責させたエリツィンからプーチン政権への移行を、今回のウクライナ侵攻につながるような負の側面に焦点を当てて確認しておきたい。

最初に注目したいのは、エリツィンがウクライナ・ベラルーシの三国でソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の樹立を宣言したように、歴史的・言語的に関係の深いこれら東スラヴの国々を重視するとともに、ロシアからの独立を主張したチェチェンに対しては強硬策を取って弾圧したことである。

翌年に首相を兼任してエリツィンは強権的な手法を議会でも用いて、縁故資本主義的な政策が批判されると大統領令を公布して超法規的に現行憲法を停止し、ロシア人民代議員大会と最高会議を強制的に解体した。このような手法に批判が集まり大統領選挙で苦戦すると新興財閥からの巨額の選挙資金などでようやく勝利したが、すると、第二次チェチェン紛争では辣腕を振るったプーチン首相を後継者に選び、不逮捕特権を得ていた。こうして、共産党政権の末期には「赤い貴族」が批判されるようになっていたが、エリツィンは政権の末期にはロシア帝国の皇帝のような独裁者に近くなっていた。

プーチンは大統領になった当初は、エリツィンとの癒着で莫大な富を得ていた新興財閥にも税金を課し、不正を取り締まったことで国民からの支持を得たが、2期目となる2004年には地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改めるなど中央集権化を進めて、エリツィンと同じように独裁者的な傾向を強めることになる。さらに、ソ連崩壊後の激しいグローバリゼーションに対抗するような形で世界の各国でナショナリズムの高揚が見られたが、プーチンの政策にもこのような民族主義的な傾向もみられるようになったと思える。

ことに大統領の正規の任期を終えた後で、もう一度首相に戻ってから再び大統領選に出るという非民主的な手法で再選された後ではエリツィンと同じような独裁者的な存在となった。さらに、精神的盟友とも言われるロシア正教会のキリル総主教との個人的な関係も深めていることが3月29日のNHK報道でも伝えられており、「専制・正教・国民性」の道徳に従うことが求められたロシア帝国の時代に逆戻りしているようにさえ思えた。

安倍元首相がクリミア併合の後でプーチン大統領との27回も会談を行っていたのは、権力者プーチンの強圧的な手法やその強大な権力にあこがれを抱いたからなのかもしれない。

しかし、堀田善衞が会見を求めた老詩人スルコフはチェコスロヴァキア事件によって「彼らとの友情を回復するためには、一〇年では足りないかもしれない。二〇年はかかるかもしれない」と語っていたが、単に戦車で言論を弾圧したばかりでなく、砲撃などで一般の市民の殺戮をも行っている今回のウクライナ侵攻がロシアに与える負の影響はより深く長く響くものになると思える。

そのことを考慮するならば、「君と僕は、同じ未来を見ている」とまで呼びかけていた安倍元首相が、国際的な非難がプーチンに集まると手のひらをかえして今度は核武装や軍拡にまで言及していることは危険極まりないといえるだろう。

次回はウクライナやポーランドを併合したロシア帝国と韓国を併合した大日本帝国の教育制度を比較することにより今回のウクライナ危機が日本に投げかけている問題の深さを考察することにしたい。

(9)日露の隣国併合政策と教育制度の類似性

前回見たように、日本ではウクライナ危機を契機に自民党のタカ派や維新の議員が声高に軍拡や「改憲」を訴え、公明党や国民民主党などもそれに流されているように見える。

しかし、ウクライナ危機が1968年の事件の際と決定的に異なるのは、ロシアに武力で攻撃されたことのなかったチェコスロヴァキアが武力による抵抗をしなかったのに対して、ロシア帝国に併合されていたという過去を持っていたウクライナが人的な被害をも顧みずに徹底的な抗戦をしていることである。

おそらく併合された民族の怒りや心的な深い傷について考えたことのなかったプーチン大統領はチェコスロヴァキア型の解決を予想していたのだと思われる。今回のウクライナ危機に際して、戦争に関連して日本人が考察すべきは、過去に併合されたことのある隣国の心的な傷の深さだろう。

『若き日の詩人たちの肖像』で日本に住む韓国人の屈折した心理をも描いた堀田善衞は、上京してからギターも習い始めた主人公の若者が、ロシア帝国によるポーランド併合と日韓併合についての類似性について、「ショパンの音楽は、たとえば朝鮮のアリラン節を洗練したようなものであり、ポーランドの旋律のもつ、あるあわれさとポーランド自身の運命は、東方における朝鮮のそれに酷似していた」(上巻・40頁)という感想を抱いたと描いている(『堀田善衞とドストエフスキー』群像社、57頁)。

ドストエフスキーが受けた教育とウクライナやポーランドとの関りについては、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でゴーゴリの場合などをとおして考察していたので、少し長くなるがまずそれらの個所を引用する〔文章中の「」はそのまま記し、省略した個所は(……)で示す〕。

「ドストエフスキー兄弟が学校に通い始めた頃、ロシアでは「祖国戦争」後に属国として併合したポーランドの政情ともからんで、大きな「教育改革」が始められていた。

すなわち、デカブリストの乱の後に、自由主義的な思想の排除に努めていたニコライ一世は、一八二九年にポーランド王に即位すると、それまでポーランドには認められていた憲法の破棄などを断行しようとした。そのためにこれに対する激しい反発からポーランドでは翌年の一一月に蜂起が勃発していたが、これを鎮圧したニコライ一世はポーランドにおける憲法の無効を宣言し、ワルシャワやヴィリノ大学を閉鎖したのである。

このような「教育改革」はすでに属国として併合されていたウクライナでも行われていた。ドストエフスキーが学んだチェルマーク寄宿学校の雰囲気を想像する手がかりとするためにも、少し回り道をすることになるが、作家のゴーゴリが一八二一年から二八年にかけて学んだウクライナの高等中学校(ギムナジウム)でおきたいわゆる「自由主義事件」をとおして、ウクライナの「教育改革」の問題を簡単に見ておきたい*7。

ゴーゴリが入学したときのオルライ学長は医学と哲学の博士号をもった知識人で、一八一二年の「祖国戦争」に際しては、軍医として負傷者の手術にもあたったことがあり、時には他の学校と同じように鞭による体罰も行ったが、ペスタロッチの教授法による自由な学風を確立していた。それゆえ、学校では語学の修得のためにも演劇が推奨され、ドイツ語、フランス語やさらには、学校の正課には入っていなかったウクライナ語の劇が上演され、ゴーゴリも俳優としての才能を発揮していた。

だが、学長が学校を去って問題が起きた。一八二五年のデカブリストの乱の後から密告が推奨され(……)寮生の持ち物検査をすると、学生たちの持ち物に当時は上演が禁じられていたグリボエードフの『知恵の悲しみ』や、危険視されていたプーシキンの『コーカサスの虜囚』や『強盗の兄弟』などの書物が見つかった。

(……)卒業の時期が近づいて来るに従って、それまでベロウーソフを弁護していた学生たちが証言を覆し始めた。なぜならば、卒業時に与えられる官等は、その評価によって一二等官から一四等官までの差が出るからであり、学長も保守的なヤスノスキーに代わっていたのである。こうした結果、ベロウーソフ教授と最も親しいと見なされていたゴーゴリは、彼より出来ない学生が一三等官の官等を得たにも係わらず、結局、最下位の一四等官の地位しか与えられなかった。

こうして、学校ではウクライナ語の詩も書いたりしていたゴーゴリは、卒業に際して「秩序」の厳しさを身にしみて味わわされ、ロシア語で作品を書く作家としてデビューすることになるのである。」(50~52頁)

一方、ロシア帝国でもドストエフスキーが寄宿学校に入る前年の一八三三年に「わが皇帝の尊厳に満ちた至高の叡慮によれば、国民の教育は、正教と専制と国民性の統合した精神においてなされるべきである」とする通達を学校関係者や教育行政官に出されていた。

「(ニコライ一世は)革命の成果を守るために国民軍の導入を果たしていた「国民国家」フランスとの国家の存亡を賭けた「祖国戦争」で辛うじて勝利をおさめた経験から、「普遍的な理念」とされロシアの若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念によって西欧文明への崇拝者が増え、自国の「国家」としての骨格を崩されることを怖れて、ロシアの「伝統」に根拠を置いた「正教・専制・国民性」の「三位一体」を「ロシアの理念」として国民に徹底しようとしていたといえよう。

しかし問題は、「ヨーロッパの理念」に対抗するために、西欧近代の「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」の批判をできるようなロシア発の「普遍的な理念」を打ち立てるのではなく、ロシアの貴族が既得権益を失うことのないように、ロシアの「伝統」が強調されたことである。

農奴制の問題を手つかずで残したままで、「正教・専制・国民性」を「ロシアの理念」として強調したことは、ロシアの「野蛮性」を批判する西欧諸国の批判に根拠を与えることとなってしまった。それゆえ、厳しく禁じられた「自由・平等・友愛」という理念に憧れる若者が増えることを未然に防ぐために、ロシアは西欧からの厖大な情報に対する検閲を強化し、その措置が西欧からの新たな批判を生むという悪循環を招くこととなったのである。」(52~54頁)

若きドストエフスキーがデビュー作『貧しき人々』でプーシキンの『駅長』とゴーゴリの『外套』を詳しく分析していたことの意味については、拙著で詳しく考察したが、ニコライ一世の頃の国粋主義的な歴史理解の弊害をもドストエフスキーは深く理解していた。検閲で禁じられたベリンスキーのゴーゴリへの手紙をペトラシェフスキーの会でドストエフスキーが朗読したことは、そのことをよく示しているだろう。

すなわち、ゴーゴリは一八四七年の初めに『友人達との往復書簡選』(以下、『書簡選』と略す)を出版し、ここで「官製国民性」を高く掲げて、自己を棄てた「国家への奉仕」こそがロシアの危機を救うと主張した。

「この頃ゴーゴリは、『死せる魂』の第二部で主人公チチコフの回心を描こうとしていたが、この試みはなかなかうまくいかず、それまで書きためていた原稿をすべて燃やしてしまうなど精神的に追いつめられていた。こうした精神的危機の中で出版されたのがこの著作であった。

ゴーゴリはこの『書簡選』でも「汚職」や「裏取引」が「人間の手段をもってしてはどうにもならぬほど多い」ロシアの現実を厳しく指摘して、「ロシアはまさに不幸である」と断言してはいる。

しかし、このような現状認識を示しつつもゴーゴリは、ここでその原因をロシアにおける法律の不備や憲法の欠如に求めるのではなく、人々が「物質的利益に誘惑されエゴイズムに盲いて、よきロシア的伝統を見失っている」ためだとした。そしてゴーゴリは、「自己のための自己を全て殺し、全てをロシアに捧げ、ロシアにあって活動しなさい」として、制度的な腐敗を生み出している政府ではなく、その腐敗に苦しむ国民に対して道徳を説いたのである*44。

しかも、ゴーゴリは神によって支配する者と支配される者が選別されているのだとして、「支配される立場に生まれた彼ら百姓たちが、その下に生を受けた権力に従順たらねばならぬ」ことを強調し、「国家内の全ての階級・全ての個人が己の分と義務を弁え」るように、ロシア人の教育にあたっては、「彼の属する階級の諸々の義務を教えこむこと」が必要だとも記していた。このようなゴーゴリの記述の方法は、個人の自立を阻むものとしてまさにドストエフスキーが『貧しき人々』で否定していたものであった。(……)

注目しておきたいのは、ゴーゴリの『書簡選』が出版された年に、ウクライナ語で詩を書いていたシェフチェンコなど「キリル・メトディ団」が逮捕されるという事件が起きていたことである。」ウクライナ語を積極的に用いることは、「「国民国家」フランスの成立以降、どの国でも「中央」の言語として重要視されてきた「国語」の権威を揺るがすものとして危険視されたのである*45。」(157~158)

1848年にはフランスで2月革命が起きてヨーロッパは騒然としたが、「このような政治情勢下でドストエフスキーは文筆活動を続けるかたわら空想社会主義者フーリエの考えを信じて、「農奴制の廃止」や「言論集会の自由」などロシア社会の変革を求めて、印刷所を設けようとするなどの活動を秘密裏に行っていた。その年の一二月に『祖国雑記』に発表された作品」(168)が、堀田善衞が『若き日の詩人たちの肖像』第一部の題辞としてその冒頭の文章を引用した『白夜』だったのである。

「一八四九年四月二三日未明、ドストエフスキーは寝入りばなを起こされ逮捕された。その容疑はペトラシェフスキー・サークルの「集会に出席」し「出版の自由、農民解放、裁判制度の変更の三問題に関する討論に加わりゴロヴィンスキイの意見に賛成」したこと、および「ベリンスキーのゴーゴリへの手紙を朗読」したことであった。」(196)

「一方、オーストリア帝国からハンガリーへの派兵の要請を受けたニコライ一世は、一八四九年の七月に一〇万を超えるロシア軍を派遣して、八月には革命軍を降伏させた。このために国内で極端に保守的な政治を行っていたニコライ一世は、「ヨーロッパの憲兵」とも呼ばれるように」なったのである(205)。

この不幸な歴史は1956年のソ連軍によるハンガリー動乱の鎮圧で繰り返されることになり、私事になるが、かつてポーランドを旅していた際に私がロシア語で語りかけても返事をされないという経験をして、ロシアに併合された過去を持つポーランドにおけるロシア語に対する拒否感の強いことに驚かされ、創氏改名を強制した日本の韓国併合政策の過酷さを連想したことがある。

ソ連軍の侵攻の後でチェコスロヴァキアに入った堀田善衞も、「モスクワから来ていたある日本人特派員氏と食事をしていたとき、思わずこの特派員氏がロシア語を口にすると、『ここではそんなことばを使わないでくれ』」と鋭く告げらたことを記している(268)。

この侵攻の後ではチェコスロヴァキアにおいてもそれまでの信頼が崩壊し、ロシアは侵略国と見なされるようになっていたのである。

(10)「チェコ軍団」の動向とシベリア出兵の問題

前回はオーストリア帝国からハンガリーへの派兵の要請を受けたニコライ一世が、1849年に10万を超えるロシア軍を派遣していたことを見たが、『若き日の詩人たちの肖像』第一部の題辞で『白夜』冒頭の文章を引用した後で重苦しい昭和初期を活き活きと描き出した堀田善衞は、1970年に発表した小文「『白夜』について」では、「ドストエーフスキイの後期の巨大な作品のみを云々する人々を私は好まない。それはいわばおのれの思想解明能力を誇示するかに、ときに私に見えて来て、そういう『幸福』さが『やり切れなく』なって来るのだ」と記している。

この文章は彼がハンガリー出兵の前に発表された『白夜』という作品が持つ重みを深く認識していたことを示しているばかりでなく、ハンガリー出兵と1918年のシベリア出兵の類似性をよく理解していたと思える。

「なぜならば、エッセイ「砂川からブダペストまで――歴史について」(一九五六)で、「砂川町での基地反対運動についてだけでなくソ連軍によるハンガリー動乱の鎮圧についても言及した堀田は「歴史を重層的なものとして見る」ことの重要性を強調しているからである」(『堀田善衞とドストエフスキー』、45頁)。

実際、フランス2月革命の影響が国外の諸民族にも波及し始めるとニコライ一世は、「不遜極まりなき暴挙」が、「朕の統治するロシアの神を冒涜せん」としつつある今、「われらが正教徒たる先祖の遺訓に基づき、全能の神の助けをもとめて、朕はわが外敵の出現するところ、労をいとわず、進んで迎え撃つ覚悟であり」、「わが国境の不可侵権を擁護する所存である」としてハンガリー進軍の内命を三月一四日(ロシア歴二六日)に出し、さらにはペトラシェフスキー会の内偵も始めていた*3。」(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、167~168頁)

一方、第一次世界大戦の末期に行われた連合軍と日本軍によるシベリア出兵は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」ことを名目として、革命政府の打倒のために軍隊が派兵された。

なぜシベリアに「チェコ軍団」がいるのだろうか。細谷千博『シベリア出兵の史的研究』によって簡単にその経緯を確認しておきたい(129~133)。

「多年オーストラリア帝国の圧政の下で早くから民族意識に目覚め、民族的自由を獲得する運動を継続していた」チェコ人とスロヴァキア人にとって、「第一次世界大戦の発生は民族的独立を達成するための得難い機会」と映り、「両民族は続々とロシア側に投降」して、「その数は五万人にも達した。」

ソヴィエトとドイツとの停戦協定が成立すると「チェコ国民評議会(在パリ)とフランス政府との間には」、オーストリアとの戦闘のために「チェコ軍団をフランスの最高指揮官の下に属しめ、これをフランスに転送する」との協定がまとめられ、ソヴィエト軍の指揮官も「シベリア経由でロシアを去る」ことを許可して、5月末にはウラジオストックに1万人が到着した。

しかし、シベリアで反革命軍が活動を始めたことを警戒したソヴィエトが行く先の変更などを求めたために、長く待たされたことや武器の放棄を求められた「チェコ軍団」と赤軍との武力衝突が始まり、チェコ軍はペンザ、オムスク、サマラなどの都市を占領し、それらの都市では5月末から6月初旬に反ボリシェヴィキ政権が樹立されていた。このように見てくるとき「チェコ軍団」は、「革命軍によって囚われた」どころか、「革命軍に到る所で勝利していた」のである。

シベリア出兵をテーマとした堀田善衞の長編小説『夜の森』(1955)でも先陣として派兵され、8月13日にウラジオストークに上陸した小倉の歩兵第14連隊の巣山忠三・二等兵の日記の冒頭でも、「ウラジオでの大隊長の訓示によると、チェック・スロヴァキアの軍がウラジオでことを挙げ、過激派を我が陸戦隊とともに七月初旬に追っ払ってしまった」ことが描かれている(『全集』3巻・149頁)。

さらに、「我々日本軍は、聯合与国とともに国際警察隊をかたちづくっているのであって、われわれの行動作戦は、警察行動というのが建前である」という聯隊長の訓話や主人公が看護にあたった少尉の「今度の出兵は、日清日露などとはまるきり性質のちがう、出兵で」あり、「日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」であると主人公が看護にあたった少尉に、「今度の出兵は、日清日露などとはまるきり性質のちがう、出兵で」あり、「日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」(『全集』3巻・359)であるという言葉の記述もある。

これらの言葉は「日本浪曼派」の保田與重郎が「八紘一宇」などの理念が唱えられた「満州国の理念」を、「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えていたことや太平洋戦争に際してはそれまでの「日・満州・支」に東南アジア、インド、オセアニアの一部を加えた範囲が「大東亜共栄圏」とされたことを思い起こさせる。

しかし細谷によれば、日本軍の出兵数は一万二千以下であり、ウラジオストック以外の方面に出動したり」することは決してないと約束したにもかかわらず、重要な軍事拠点のブラゴヴェシチェンを占領してイルクーツクまで進出し、10月末には日本軍の人数は7万2千に上っていたのである。

さらに、この長編小説ではピカライ金山やメリワン金山の戦いも描かれているが(『全集』3巻・176、178)、それらの金山をめぐる攻防は、「過酷な軍政か反動的な傀儡政権の樹立を通じて行われ、戦争遂行のための物資と労働力の一方的な収奪に終始し、〈共栄圏〉の美名にはほど遠かった」太平洋戦争を先取りしていた観すらある(岡部牧夫「大東亜共栄圏」『世界大百科事典』平凡社)。

チェコスロヴァキア事件にふれたイギリスの詩人W・H・オーデンの詩の内容から画家ゴヤの『わが子を喰うサトゥルヌス』の絵を想起したと書いていた堀田は、「毎日新聞」朝刊に掲載されたエッセイ 「『戦争の惨禍』について―乾いた眼の告発―」(1971年 11月11日)では、「私がはじめてこの版画集を見たのは、支那事変中のことであった。『南京虐殺事件』という言葉が、密々に、どこからともなく耳に聞こえはじめていた頃のことであった」(『全集』16巻・378頁)と書いている。

堀田が短編『「ねんげん」のこと』(一九五五)で主人公に証言させているように、「五族協和」などのスローガンを掲げて建国されたこの「新天地」には、阿片を販売するための「阿片管理部」という機関が作られており、朝鮮には「阿片、ヘロイン、コカインなどを精製する大工場」があったのである。

さらに、堀田善衞の『夜の森』で主人公からロシア革命について尋ねられた通訳の花巻に、「戦争と米価騰貴に疲れ、不平不満の民衆一揆みたいに立ち上って、これと職工や兵隊がいっしょになって米騒動が革命になったのですよ」と説明させた堀田は、1919年には「人の数でなら米騒動の上をゆくような大騒動」が韓国でも起きていたと三・一独立運動についても伝えさせている。帰国直前に得た6月30日の日本の新聞記事で中国の五四運動について知ったことも記されている(『全集』3巻・281~282頁)。

それらのことに留意するならばこの長編小説で記されているシベリア出兵時に占領した地域が驚くほど後の「満州国」の版図と重なっていることが分かる。『夜の森』はシベリア出兵から満州事変を経て太平洋戦争に至るその後の日本の歴史の骨格を見事に示唆していたのである。

(2022年4月6日)

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