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「様々な意匠」と隠された「意匠」
『全作家』の第九〇号に「司馬遼太郎と小林秀雄」という評論を発表して小林秀雄のドストエフスキー観に言及したことが、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の発行につながった。
予想をしていたように、少し刺激的な副題をつけたこともあり厳しい批判も頂いたが、その反面、「批評の神様と奉られている小林秀雄をよくぞ取り上げた」との好意的な礼状も多く頂いた。また、平成二六年度の全作家合同出版記念会には参加することができなかったが、フェイスブックで思いがけず拙著の題名の垂れ幕がかかっているのを見てありがたく感じた。
実は、前回の評論では言及しなかったが、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、二〇〇二年)に収録した『竜馬がゆく』論で簡単にふれていたように、『罪と罰』を読んでその文明論的な広い視野と哲学的な深い考察に魅せられた私は、幕末の混乱した時期を描いた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで感動し、そこでは日本を舞台としながらもクリミア戦争敗戦後の価値の混乱したロシアの問題点を鋭く描きだしていたこの長編小説のテーマが深い形で受け継がれていると感じていた。
さらに、『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いたドストエフスキーが、次作の『白痴』ではこのような危機を救うロシアのキリスト(救世主)を描きたいと考えて、悲劇には終わるが、混迷のロシアで「殺すなかれ」と語った主人公・ムィシキンの理念も『竜馬がゆく』の主人公・坂本竜馬には、強く反映されているとも考えていた。
一方、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──主人公)には現れぬ」と記した文芸評論家の小林秀雄は、「『白痴』についてⅠ」でも「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と記し、一九六四年の『白痴』論では、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していた。
それゆえ、私は「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論から一時期、強い影響を受けていたものの、小林が『白痴』論で描いたムィシキン像よりは、『竜馬がゆく』で日本のキリスト(救世主)として描かれている坂本竜馬像の方が、むしろドストエフスキーのムィシキン像に近いのではないかとひそかに思っていた。
原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じ、一九二九年のデビュー作「様々な意匠」で小林秀雄が「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していることに深く納得させられもした。
「様々な意匠」は次のように結ばれている。「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。」
しかし、改めてこの文章を読んだ私は強い違和感を覚えた。なぜならば、『竜馬がゆく』第二巻の「勝海舟」ではその頃の「尊皇攘夷思想」が「国定国史教科書の史観」となったばかりでなく、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判されていたからである。
ここで詳しく論じる余裕はないが、司馬が「昭和初期」の「別国」と呼んだこの時期には「尊皇攘夷思想」という「意匠」が、政界や教育界だけでなく文壇の考えをも支配していた。そのことに留意するならば司馬の痛烈な批判の矛先は戦前の代表的な知識人の小林秀雄にも向けられているのではないだろうか。
司馬の視線をとおして「様々な意匠」を読み直すとき、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張されているが、ここでは当時の文壇の考えを支配していた重要な「意匠」が「隠されて」おり、それはライフワークとなった『本居宣長』で再び浮上することになったのではないかと思われる。この重たい問題については稿を改めて考察したい。
(『全作家』第98号、2015年)